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ヘブル語コラム③「いちじくの家」

新約聖書の中に書かれているイエス・キリストの言動は、わかりにくいものが多くあります。それは、イエス・キリストが常に主なる神様の御計画の完成を見つめておられるからです。永遠の視点から発せられるイエス・キリストの言動は、この世の視点からは理解することができないのです。
今日は、不可解なイエス・キリストの言動のTOP3に入るであろう、「いちじくの木の呪い」について、ヘブライ語の視点から見つめてみたいと思います。

いちじくの木を呪うイエス・キリスト

まずは本文箇所。

朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

新共同訳聖書 マタイによる福音書21章18-19節

なんと、イエス・キリストが空腹だった時、いちじくの木に実が成っていなかったので、呪って枯らしてしまったのです。しかも、マルコによる福音書にはもう少し補足説明がついています。

翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

新共同訳聖書 マルコによる福音書11章12-14節

なんと、いちじくの季節ではなかったのに、イエス・キリストがいちじくの木を呪ったと書かれています!ひどい!職権濫用だ!

実際、この箇所はイエス・キリストの人格について、多くの疑念を生む箇所となっています。しかし、これはヘブライ語を知らない故の誤解であるのです。

いちじくの家

この箇所の前後を見ると、イエス・キリスト一行はエルサレムに近づき、ベトファゲという村につきました。そして、エルサレムに入城され、神殿から商人たちを追い出し、ベタニアという村に行かれます。ベタニアからふたたびエルサレムに行かれる途中で、このいちじくの木を呪ったということが書かれています。
このベトファゲとベタニアという村。どちらも「いちじくの家」という意味で、それぞれ「ベイト+パーグ」「ベイト+テエナ」という二つの言葉がつながっています。ヘブライ語でベイトは家を表します。聖書の中でたくさん出てきますね。ベトシェメシュは「太陽(シェメシュ)の家」、ベテルは「神(エル)の家」、ベツレヘムは「パン(レヘム)の家」です。
ヘブライ語でいちじくを表す言葉は、パーグとテエナの二つあるのです。

初なりのいちじく

いちじくの木は、年に数回実を結びます。イスラエルにおいて、いちじくの季節といえば夏です。そして夏に数回収穫ができる前に、初なりのいちじくが実るのです。この初なりのいちじくがパーグです。英語ではいちじくはFigですが、その語源もこれですね。Figには小さい、つまらないもの、という意味があるそうですが、初なりのいちじくだからなのでしょうか。この初なりのいちじくを取った後、大きくて美味しい夏のいちじくができます。この夏いちじくがテエナです。イザヤ書にはこのように書かれています。

肥沃な谷にある丘を飾っているその麗しい輝きは/しぼんでゆく花だ。夏に先がける初なりのいちじくのように/それを見る者は、見るやいなや/手に取って呑み込んでしまう。

新共同訳聖書 イザヤ書28章4節

初なりのいちじくは商品価値の低い実です。しかし、この小さな初なりのいちじくを取らなければ、夏のいちじくは実りません。そのため、いちじくの木の所有者は初なりのいちじくを取り除かなければならないのですが、一つ一つ取るのは大変ですし、取っても売れません。なので、いちじくの木の所有者は、道行く人々に自由に初なりのいちじくを取って食べてもらったのです。イザヤ書はこのような初なりのいちじくの性質をたとえに用いているのですね。
時は折しも過越し祭の季節です。地方からすべてのユダヤ人男性がエルサレムに集結します。この巡礼者たちへの施しとして、まさに一石二鳥のやり方だったわけですね。
そういうわけで、初なりのいちじくは、それ自体は甘味も控えめで特別に美味しいわけではありませんが、イスラエルの民にとっては夏の実りを期待させる喜びの象徴であったのです。

本文を改めて見ると

このようないちじくの性質から先ほどのマルコによる福音書を見直してみると、こうなります。

翌日、一行がベタニア(夏いちじくの村)を出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実(初なりのいちじく)がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじく(夏いちじく)の季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

初なりのいちじくが成っていない、ということはどういうことでしょうか。全部取られてしまったということではなく、もともと成っていないのです。初なりのいちじくが成っていなければ、当然その後の夏いちじくは実りません。イエス・キリストは季節外れの夏いちじくを理不尽に要求したのではありません。しかし、葉ばかりが茂っていて、初なりのいちじくが無いということは、その後に本当に美味しい夏いちじくも実らない無用な木ということなのです。

譬えの意味

イエス・キリストは、ご自身が旧約聖書に示された通りに十字架にかかり、死なれ、復活されるということを、完全に確信することを人々に期待したわけではありません。弟子たちですら、それができなかったのです。しかし、弟子たちは、イエス・キリストのもとを離れず、ついてきました。理解はできなくとも、主の御計画の全貌はわからずとも、それでもついてきました。それが、初なりのいちじくなのです。立派な信仰ではない。イエス・キリストのような確信に満ちた信仰ではない。しかし、それさえあれば、夏いちじくを期待することができます。
しかし、当時の有力者層をはじめ、多くの人々はそうではありませんでした。律法を文字通り以上に厳しく守り、神殿祭祀を宗教システムとして遂行していましたが、主なる神様の御言葉をありのままに受け止め、自分の理解の枠を超えていたとしてもそうなると信じはしなかったのです。それが葉ばかりが茂って実のないいちじくの木です。

主なる神様はわたしたちに初めから完全な信仰を求めてはいません。夏いちじくの季節ではないからです。しかし、初なりのいちじくのような小さな信仰によって主を期待する者は、やがて大きな美味しい夏いちじくのような信仰を結ぶことができます。
小さな信仰をもって、スタートを切る私たちになりましょう!

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