「日本書記」舒明天皇、孝徳天皇

「日本書紀」舒明天皇、孝徳天皇」

日本の正史「日本書紀」に有馬温泉が登場します。
その事は多くの方がご存知だと思うのですが、どの様に書かれているかという事と、その時代背景をご紹介いたします。

はじめに

日本書紀は720年に完成しました。
日本書紀には、有馬温泉に舒明天皇が2回、孝徳天皇が1回行幸したことが記載されています。

舒明天皇が有馬温泉に行幸

「日本書記」巻物第23 34代舒明天皇

(原文)三年秋九月丁巳朔乙亥、幸子摂津国有間温湯、冬十二月丙戊戌、天皇至自温湯、

舒明天皇が即位して3年の秋9月、西暦631年。「丁巳の朔にして乙亥に、摂津国の有間温湯」、温湯と漢字二字で「ゆ」と読みます。「摂津国の有間の湯に幸す」、有馬の「馬」が「間」という字になっています。
「丙戌の朔にして戊戌に、天皇、温湯より車駕、温湯より至ります」。

岡本宮(現・奈良県高市郡明日香村)にいた舒明天皇は、即位3年目の9月19日から12月13日まで、約3ヶ月有馬に滞在していました。

(原文)幸有間温湯宮、十一月春正月乙巳朔壬子、車駕環自温湯、乙卯新嘗、蓋因幸有間以闕新嘗歟、

即位して10年(西暦638年)「11年の春、正月の乙巳朔にして壬子に、車駕、温湯より還ります」、10月に来て、正月を有馬温泉で迎えて、正月8日に帰ったとあります。

そして「乙卯に、新嘗きこしめす。蓋し有間に幸せる因りて、新嘗を闕せるか」と書かれています。

新嘗祭は、今は11月23日の勤労感謝の日に行われていますが、収穫を寿ぐ祭りで非常に重要な祭りです。
この11月に行う大事な新嘗祭を舒明天皇は宮中でやらなかった。有馬にいたために大事な新嘗祭を闕したのかと書いてあります。

舒明天皇が重要な収穫祭の時期を変更してまで有馬温泉に逗留したのは、病気だったのか、それともよっぽど有馬温泉を気に入ったのかもしれません。

そして「12月の己巳の朔にして壬午に、伊予温湯宮に幸す」伊予温湯は今の道後温泉です。舒明天皇は温泉好きだったようです。

舒明天皇とは

628年推古天皇が後継者を決めないままに他界した為に、後継者問題が起こりました。

推古天皇から生前、「天下を治めるのは大任だ。慎重に物事を進めなさい。」と田村皇子(舒明天皇)は言われました。

一方、山背大兄王(聖徳太子の子)は「やかましく騒いではいけない。必ず群臣の言葉に従い、謹んで道を誤らない様にしなさい。」といわれたので二人とも自分が後継者だと思ったのです。

蘇我蝦夷を中心に会議を開いたのですが、蝦夷は父の馬子から権力を引きついたばかりで独断で決めかねたそうです。その時に蘇我の一族の一人が蝦夷の機嫌を損ねて山背大兄王の元に行ってしまったのです。

それで蝦夷は田村皇子を天皇にする事にして舒明天皇が誕生したのです。

前の天皇、推古天皇が遣隋使を送っていたのですが、618年に隋が滅んだので、舒明天皇は有馬温泉に来る前の年の630年に遣唐使を派遣したのです。

孝徳天皇が有馬温泉に行幸

「日本書紀」巻物第25 36代孝徳天皇

(原文)大化三年冬十月甲寅朔甲子、天皇幸有馬温湯、左右大臣群喞太夫従焉、十二月晦、天皇環自温湯、而停武庫行宮、

「冬10月甲寅の朔にして甲子に、天皇、有馬温湯に幸す」。舒明天皇の時は有馬は「有間」と書かれていましたが、ここで「馬」が使われます。

漢字というのは読み方が先にあっていろんな漢字を振ります。「振り漢字」と言っていますが、音が先にあるのです。それにたまたまあった漢字をあてていくだけなので「間」であっても「馬」であっても、意味の違いはないのです。
このとき孝徳天皇は、「右左大臣・群卿大夫を従へり」。左大臣、右大臣、それから周りの者たちを連れての大旅行です。宮中全部こっちへ移ったような、そういう大きな団体で有馬来ています。

日本書紀によると、この年に小郡宮をつくったとあるので孝徳天皇はここから出発したようです。

10月11日に有馬に向けて出発し、帰りは12月大晦日に「武庫行宮」滞在しました。現在の宝塚市高司・蔵人・小林付近とみられます。

孝徳天皇とは

舒明天皇の時代は蘇我蝦夷や蘇我入鹿の全盛期でした。
蘇我氏は朝鮮半島と結びつきを深めていました。舒明天皇はそれが嫌で有馬温泉にやって来たのかもしれません。

舒明天皇が641年に亡くなったのですが、蘇我蝦夷は戦略上、舒明天皇の后を押して皇極天皇として即位させたのです。そして蝦夷の息子入鹿は、次の天皇の有力候補の舒明天皇の対抗馬だった山背大兄王(聖徳太子の子)を攻め殺しました。

舒明天皇と皇極天皇との子、中大兄皇子は中臣(藤原)鎌足と組んで蘇我入鹿を皇極天皇の御前で打ち取り、叔父の軽皇子(孝徳天皇)を擁立したのです。それが大化の改新です。

653年第2回遣唐使を派遣します。その時に堺生まれの僧、道昭を派遣します。この道昭の弟子が行基になるのです。

中大兄皇子は策士で、次々と対抗馬を消していきます。孝徳天皇が654年亡くなると皇位継承の有力候補だった有間皇子に謀反の疑いがあるとして処刑してしまいます。

668年中大兄皇子は天智天皇として即位しますが、4年後に亡くなってしまったのです。

有馬へのルート

舒明天皇は、奈良県明日香村から奈良盆地を北上して、水路であれば木津川から淀川を下り、陸路であればこの川沿いをたどって、猪名川・武庫川を渡って宝塚市小林に至ったと考えられる。

孝徳天皇は大阪の天神橋筋を北上し、旧中津川の渡河点で北西に曲がり、猪名川・武庫川を渡っていたのでしょう。




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