私たちに潜む「傲慢と善良」
辻村深月という作家が直木賞作家であり、著書の中にはアニメ化されたり、映画化されたりしているものがあることは知っていた。
しかし、アマノジャクな私は有名作家はみんな読んだことがあるだろうから、もっと掘り出し物作家を読みたいという思考のもと、辻村作品のどの作品も目を通したことはあまりなかった。
”あまりなかった”というのは、唯一「ツナグ」を途中まで読んだことがあったからだ。
知人宅に遊びに行った時に、本棚にあったのを手に取り少しパラパラと読んでみたのだ。
「面白そう」と思いつつ、それっきりになってしまった。
今回は、様々な作家を横つなぎに読破していこうという、個人的プロジェクトの元、天下の辻村様の作品に足を踏み入れたのだ。(失敬、是非読ませて頂いたのだ。)
もはやベストセラーとなった「傲慢と善良」である。
とオビに記載の通り、圧巻の一言。
架は、学生時代は彼女をつくるのに苦労したことがない言わば「モテる」タイプの男子。
だから、結婚に対する焦りはなく、周りには女友達も多く、30代後半を過ぎた頃に周りが結婚し始めて、「そろそろ結婚する時期か」と流されるように婚活をするようになっていった。
それに比べて真実は対照的に、親に(特に母親)全ての彼女の人生の選択肢を委ねて、親に人生のレールを敷かれ、親の「期待」のもとに人生を送ってきたタイプの女子で、自分で「決める」ということをしたことがほぼ皆無の状態だった。
私の心に琴線に触れたのは、私も学生時代に自分の人生を振り返った時に、親のレールに敷かれて、親の期待のもとに送ってきた人生だったと気づいた時の驚愕した感情を振り返れたことだ。
学生時代の当時、社会学者で心理学者、評論家の加藤諦三さんの著書、「誰にでもいい顔をしてしまう人」という本を読んで自分の心の苦しさを客観的に確認し、苦痛にもだえ苦しむ期間があった。
とにかく誰かから拒絶されたり、嫌われるのが怖く、「誰にでもいい顔をしてしまう」自分がいることにウスウス気づいていたが、学内の書店でこの本のタイトルを見た時、これは自分のことをいっていると直感してそのまま休憩時間に図書館の片隅で熟読したのを覚えている。
自分で、自分の意見を言わずに、「決める」ということをしてこなかったから、自分が無く、親が人生に過干渉になりすぎて子供から心を搾取している、それでいて子供側である私も親が「決めてくれる」ことに胡坐をかいてラクをしてきた、言わば「共依存」のような状態であることを知れたのだ。
「傲慢と善良」に出てくる真実も同じような状況に陥っていた。
自分で決める勇気がなく、臆病であり、自分は「正しく」人生を送ってきたから架の女友達のようなちょっとした不躾さというか、社会に揉まれながら学習するような垢ぬけた感じがちっともない。
かつて真実が婚活を行っていた地元の由緒ある結婚相談所の仲人である小野里夫人と対面した時に言われた一言が印象的だ。
正しさの「ものさし」というエッジの効いた武器を相手の喉元に突きつけ、「どうだ、私の方が正しいだろ」と相手を威嚇し、無自覚に傷つける。
それでいて、自分と相いれない価値観が向こうからこちらに迫ってきたときにそれを受け入れる器が存在しない。
それは自分が今まで、「決めてこなかった」ことの裏返しでもあるように思う。
自分が何を受け入れ、何を捨ててきたのかという経験をしていないから、結局はお母さんに選んでほしいのだ。
それで自分が安心したいのだ。
途中、架が真実を探す時に、彼女のお姉さんである希美に会い、お互いに話すシーンがあるがそこでの希美の会話も印象的だ。
また、架の女友達である美奈子が言った一言も考えさせられる。
私たちは社会に出る前も色々と失敗しながら、一次情報で様々なことを学んでいく。
そして、社会に出てからも、様々な人間関係の中で喜怒哀楽を味わい、苦しみもだえ、感動し、1日1日のそれでいて雑然と過ぎていく日々を送っている。
その中で経験したり、体験したりすることが「垢ぬける」ということでもあると思う。
自分の人生の選択肢の全てを「誰かに」委ねてしまっていたら、自分が分からなくなってしまうのは当然のことであるように思う。
~ここから少しネタバレ~
だから、真実が架や彼の母、そして彼女の両親など周りの人間に嘘をついて、東北の地でボランティアをした際に、彼女は初めて自分の人生に足を踏み入れたように思うのだ。
震える自分の足で、一歩を踏み出し、出会っていく様々な人間関係の機微の中で自分が感じた内容は、その人間にとっての「財産」だ。
彼女がそれに気づいたとき、そして自分の足で自分の人生を歩き始めた時、そこにヨチヨチ歩きの偉大なヒヨコの姿を私は目撃したように思う。
立派な「正しさ」を持ち合わせる傀儡人間ではなく、あっちへうろうろ、こっちへうろうろするが、自分の足で歩く姿には感動を覚える。
泥んこになりながら生きていくのが、「生きる」ということかもしれない。
作家の朝井リョウ氏が解説に寄せたコメントもウーンと唸らせられる。
何かを、誰かを決める時、私たちは自分と、自分の過去と向き合わないといけなくなる。
それが、人生の節目、岐路での大きな選択肢であればあるほど、苦しむのだ。
朝井リョウ氏が言うように、それを主題に置いているこの作品はヘビーだが、そこの内面に解像度高く踏み込んだこの辻村作品には強く脱帽させられた次第だ。
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