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結局、性(サガ)は変わらない

自己分析すると私は自意識過剰で、少しナルシストで目上の人に怒られるのが怖い。

強くなりたいと漠然と思い、社会人になってからは自己啓発書を読み漁ったこともあった。

東京に住み、人並みの挫折を感じた中である日、布団の中でボーっと考えて思ったこと。

それは、「人の本性は結局変わらない」ということ。

その時、布団の中ではある過去の記憶を回想していた。

小学校5年生の夏、私は1000円札を友達に渡した。

心の痛みと共に私の手元を離れて行った1000円札は、その日の夜、友達の手元に折り曲げられて握られていた。

懐中電灯の光が辺りを照りつける、地元の消防訓練の夜だった。

私の追憶の中で、物心ついてから自分の弱さを必死に変えようとした事があまりにも馬鹿らしく思える記憶の一つだ。

私の地元は愛知県の片田舎なのだが、そこでは初夏の夜に地元の人々による消防訓練を行っている。

1年に1度だけ、夜8時に地元の旧い公民館に集まり、灯油を入れた一斗缶に火をつけ、消火器で火を消す訓練をやるのだ。

それも地区の近隣住民総出で老若男女みんな奮って参加するイベントである。

小学生にしたら少しワクワクする行事の一つになっていた。

私はその日、学校から帰るとランドセルを自分の部屋に放り投げ、幼馴染のT君の家に遊びに行っていた。

T君の家は、私の家から全速力で13秒で到着する。

隣のおばちゃんの家の敷地に侵入して行かないといけないのでちょっと慎重になるのだが。

私とT君は学校でも放課後もよく遊んでいた。

自転車で近所をぐるぐる回ったり、田舎の森の中を散策したり。

その日はT君の家の中でボール当てをして遊ぶことにした。

ルールは簡単で、逃げる相手をボールを持った鬼が追いかけて当てるゲームだ。

当てられたら鬼が交代して、また鬼が相手を追いかけてボールを当てるという繰り返しである。

T君の家の中でこの遊びは白熱し、田舎の平屋の大きな家とはいえ、ドタドタ走りながらけたたましい音を立てていた。

そして、私のトラウマとなる事件が起こった。

私がT君にボールを当てられ、T君を追いかける番になり、すばしっこいT君に対してムキになり、細い廊下で思い切ってボールを投げた時だ。

思い切って投げ、私の元を離れて行ったボールはT君の家の廊下の戸棚のガラスめがけて飛んでいき、そのままクリーンヒットした。

次の瞬間、けたたましい音と共にガラスが方々へ飛び散った。

私は一瞬何が起こったか把握しきれず、動揺した。

咄嗟に思ったことは、「ヤバい、母さんに怒られる」だった

今思えばかなり焦って、素足のままガラスを片付けようとした。

そしてこの頃から私は「臆病」な性格であった事が分かる。

「マサ君、危ないよ!」

T君は背後から駆けつけてきて、裸足のままガラスを片付けようとしている私に呼びかけた。

私はなりふり構わず焦りながらガラスを片付けようとした。

次の瞬間、私の脳裏にあるアイデアが思い浮かんだ。

「T君、1000円あげるからガラス割ったのT君だったってことにしてくれる?」

なぜか財布をポケットに入れていて、そこから1000円札をT君に差し出した。

T君が2000円にしてくれ、と言えば心境的に間違いなく2000円にしたであろう。

そしてT君はその1000円札を受け取り、私たちの遊びは終わって、私は家路へとついた。

その日の夜、消防訓練のため、私の家は家族総出で公民館に行く予定だった。

近所の人たちと集合し、そこから公民館へと向かう。

待ち合わせ場所にT君の家族もいた。

T君の父さん、母さん、姉さん、妹、祖父さん、祖母さん、そしてT君。

私の家族はと言えば、父さん、母さん、兄貴、弟、ばあちゃん、そして私。

日中のガラスの件は確実にバレてるであろう。

T君の家族たちはどう思っているのだろうか?

しかし、1000円札でT君を買収し、T君が割ったことになっている。

T君はあの後、こっぴどく怒られただろうか?

いろんな思いが駆け巡り、私はT君の家族の方を見る事ができなかった。

T君の家族と私の家族が談笑している。

私はガラスの件を振り返っている。

すると、T君の祖母さんが唐突に話した。

「マサ君はガラスで怪我しなかった?マサ君、うちのガラスを割っちゃったらしいけど」

一瞬、えっ!?と思った。

T君の方を見ると、T君はニヤニヤと笑っている。

「マサ君からもらった1000円札まだ持ってるけど、、返そうか??笑」

私の家族、特に母さんとばあちゃんはすでに形相を変えている。

「ガラス割ったの!?なぜ黙ってたの!!??」

私は動揺した。言葉が出てこなかった。

その後のいつもは楽しいはずの消防訓練も、私の心の中ではひたすらにただ、モヤモヤした思いが浮遊し続けていた。

T君にバラされた事がモヤモヤの原因ではないし、怒られたことを気を落としているのでもない。

私はつまり自分の起こしてしまった行動において、自分自身に幻滅し、呵責し、言語化できずにいたのだ。

T君がニヤニヤしながら手元に握ってヘナヘナになっていたその1000円札はまるで私の心の中の状態を表しているようだった。

巷で流行る「自己啓発書」の類では克服できないような人間の「性(さが)」というものがあると思う。

私がこの時に感じていた思いは、のちに読んだ夏目漱石の「こころ」に出てくる先生がKに対してしでかした際の心境に似たものを感じた。

様々な性質や性格を持った人間が世の中にはいる。

決断力を持った人間、明るい人間、暗い人間、優しい人間、怖い人間、いろんな人間。

克服しようともがいている人も多いと思う。

しかし、思うのはその人間の「精神的原型」はすでに生まれた瞬間に決まっているよ、ということだ。

そして、大人とは「体が大きくなった子供でしかない」ということだ。

20代になってみたら意外にガキだ。

30代になってみたら、意外にガキだ。

つまり40代も意外にガキであり、50代も自分が到達すると意外にガキだということだ。

自分を許す、という選択肢をどこかで自分にしてあげないと自分の身がもたなくなると思う。

#創作大賞2024
#エッセイ部門

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