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剃り残しのわき毛を見せられた時、ボクは否定されてもいいと思った

夏の暑い日の昼下がり、ジリジリと照りつける太陽の元で僕は下半身の血流の循環の巡りを良くしていた。

それは思いがけずに訪れた、田舎のマダムのキャミソールから伸びた腕の下を垣間見た瞬間の出来事であった。

キレキレの完全無双でいて、モラトリアムという人生最強のタームを過ごしていた学生時代のことだ。

飛び込み営業のバイトをしていた僕は、その日も変わらずに地方の民家の住宅街を一軒一軒巡っていた。

基本的にチャイムを押しても断られるのが筋だが、たまに話を聞いてもらえて人間同士の浅はかだが、血の通った交流が出来た時に商材を買ってくれる可能性は高くなる。

話をする民家の人々が商材に対するニーズが無かったとしても、若い人間が汗水垂らして働いている姿に同情を寄せる者もある。

今思えば、同情トークなんぞ、狡猾なものであったな。

学生にとっては夏休み、一般の人間にとっても休日であったその日は玄関口に主婦やお母さんが出てくることが多く、商材を見せてトークをしてもやんわり断って次の家へ向かうという状態が続いていた。

飛び込み営業をする時は、結構な勇気を必要とするが「営業マン」を「演じる」ことで、強く断られたとしても、自尊心の深いところ、柔らかく傷つきやすい所を傷つけられないように自分を守っていた。

そして、午前中の営業を終え、昼飯を勢いよく食べて、少し休憩をし、午後の営業をスムーズに再開したその直後のことだったように思う。

僕は住宅街のどこにでもありそうな平屋の、ある一軒家を訪れ、チャイムを押した。

間も無くして玄関口をガラガラとスライドさせて出てきたのは、おそらく40代前半くらいのそんなに美人ではない、黒髪を肩まで無造作に下げて怪訝な顔をしたマダムであった。

田舎の一軒家のお母さんを「マダム」と呼ぶのは似つかわしくないのかもしれない。

しかし、僕にとってあるシチュエーションや条件が成立すれば、それはお母さんではなく、妖艶な「マダム」という表現が相応しくなると思っている。

地味な色をしたキャミソールを着ていて、それがためにどちらかというと豊かな胸元が表れ、そのことと暑い真夏の空気感の中で僕はクラクラとめまいがしたようだ。

その上半身から露骨にも表れた素肌は、子育てで日々走り回っているがために、ケアがなかなか行き届いていない表面の荒々しさを醸し出していたが、それゆえのリアルな肌感が僕をより一層、現実とは違う世界へ誘おうとしていた。

要は、メディアを通して見たモデルの現実離れして演出されたその素肌と違う「リアル感」の言わば生々しい素肌に僕のセンサーが反応したのかもしれない。

そのマダムの腰元に隠れて顔だけをチョコンと斜めに出した就学児の子供が1人、興味津々に僕の方を見ていた。

子供は無邪気であった。

マダムは怪訝と、不信の感情を僕に抱いていたであろう。

表情は強張っていた。

僕は挨拶をして、商材を紹介し、提案をした。

しかし一言、「いりません。うちには関係ないことです。」と語尾を強めに一字一字はっきりと言い切って会話を断ち切ろうとした。

その言動の最中に僕は、マダムの右腕が玄関の入り口を支えているその下のキャミソールが故に覗かせる脇の付近が目に入った。

それも素肌の肌感を、細胞を寄せ集めて人間の皮膚を作り出しているその肌感を思いがけずリアルに目視確認したのだ。

彼女は、脇にナチュラルに生えてくるヘアの処理を-おそらく子育てと家の雑多な用事に遮られて処理できずにいたのであろう-ところどころマダラな黒い胡麻のようになり、それは生え際の処理を怠ったがために、リアルな生々しさの新芽のように生え散らかしていた。

そのリアルな自然体が、僕の人間の根源としての、生命力に火をつけたようだ。

迸るような脳からの信号は瞬く間に、僕の身体の下流を駆け巡り、ある一点においては血流の循環の明らかに不自然な様子を醸し出していた。

僕はこの時点で、マダムに強く営業としては断られていたのだが、それ以上にその肌感と「僕」という人間が「否定」されたように錯覚したことによって、思考が停止し、人類が脈々と続いてきたその本能的感情を内面で異常なほどに昂ぶらせていた。

否、昂らされていた。

僕はこの時点で、もう否定されてもいいし、何であればもっと貶されてもいいと思うようになっていた。

玄関をピシャリと閉め切られたあと、残された本能を醸成させられた、その点でいう生命力としての個体としての「僕」が残されただけであった。

遠いところで、セミがけたたましく鳴き続け、目の前が霞んでいくようでいて、それでもなお、僕の生命力としての「個体」はしばらくその内面で躍動し続けていたのであった。

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