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連載小説「和人と天音」(16)

「来たよ」
 ある日、いつものように和人が学校帰りに病院に寄ると、病室の中に母がいた。じいちゃんのベッドの横、じいちゃんの頭のすぐ隣りの丸椅子に座って、白髪が長く伸びてどっかの山奥で修行している道士のようなじいちゃんの頭に顔を寄せて、ひそひそ小声で何か話していた。
 和人の声を聞くとすぐに母は話をやめ、じいちゃんは、「うん」と小さく和人に答えた。じいちゃんも母も黙っていた。座れとも、外で待っていろとも言わなかった。和人は一瞬どうしようかと思ったが、問いかけるように母に見た。母は和人から顔をそらしたが、母の目が泣いたように真っ赤なのを和人は見逃さなかった。
「母さん、今日仕事は?」和人の問いに母はすぐには答えなかった。
「ちょっと待って」と言い残して病室を出て行った。

「母さん、どうかしたの?」和人はじいちゃんに話しかけた。なんだか微妙な雰囲気で、居心地の悪いのを少しでも和らげたいと思って話しかけただけで、じいちゃんから返事が欲しいわけではなかった。
「なんでもない。トイレにでも行ったんや、気にせんとき」じいちゃんの声もなんとなく沈んだ調子に聞こえた。
「母さん泣いてたみたいだった・・・。じいちゃんの病気に何かあったの?」
「違う。病気のことやない。お前のお父さんのことを話してたんや」
「お父さん?」和人はじいちゃんの言葉を思わず繰り返した。意外な言葉だったからだ。父は、和人がようやく歩き始めた頃に家を出て行って、それ以来、行方がよくわからないらしい。和人に父の記憶は何もなかった。

 和人が隣のベッドを見ると、今日もひげゴジラはいなかった。じいちゃんに母との話でどうして父の話が出たのか聞こうと思ったが、和人が何か言うより先に母が病室に戻ってきて、「今日はお店休んだのよ」と、いきなり言った。目の赤みは薄らいでいた。そして、いつもの母らしいキリッとした表情で話し始めた。
「ちょっと、用事ができたからね。それで、病院にも来たのよ。でも、もう帰るわ。今日の夕食は作って置いてないの。お母さん、先に帰って美味しい炊き込みご飯つくっておくから、和人、楽しみにしてね。じゃあ、お父さん、あたしこれで帰ります。くれぐれも無理しないでくださいね」
 母は出て行った。和人は母を幸せにする仕事はなかなか大変だなと思いながら、その後ろ姿を見送った。

「なんで、お父さんが急に出てきたの?」和人は母がドアを閉めるとすぐに自分の疑問を口にした。じいちゃんは、少し考えてから、いつもの口調で話し始めた。
「和人、この前、お前にお母さんのことを頼むと言うたやろ。覚えてるか?」
「うん、覚えてる。いつも、そのためにどうしたらいいか考えてるよ。今日もね」
「そうか、そうだろうとも。じいちゃんにも分かってた。・・・実はな、お前のお父さんからお母さんに連絡があったんや。じいちゃんの病気のことを誰かに聞いたんかなあ、じいちゃんが死んだら、家に帰ってくるって言うたそうや。それでな、お母さんは断った、お父さんに、帰ってくるなて言うたんや。お前はどう思う?お父さんに会ってみたいか?」
 じいちゃんは和人をじっと見つめた。じいちゃんの目玉は深い灰色で、実はじいちゃんは海の底に住んでいた人なのかもしれない。じいちゃんに見つめられて、和人はぼうっとそんなことを思った。

「いらない。お父さんなんかいらないよ。じいちゃんと母さんがいればいい」
 和人はそう言ったが、言った言葉が追いかけてきて、「でも、じいちゃんはもうすぐいなくなる」と付け加えた。耳の中でその声が反響した。自分の声のようでもあり、初めて聞く得体の知れない声のようでもあった。
「和人、お母さんを守る約束をしたけど、何から守るか考えたことあるか?」
「お母さんをひどい目にあわそうとする奴らから」
「うん、どんな奴らからや?」
「世間の悪者、・・・よくわからないけど、人をだましたり、お金をまきあげたり、暴力をつかったり、する人?」
 じいちゃんの灰色の目玉の中に、和人は閉じ込められたような気がした。

「和人、これから話すことは、心の深いところにしまっておくんやで。お前がお母さんを守らないかん一番の相手はお前の実のお父さんや。お前のお父さん、わしの息子や」
「あいつがお母さんをだましてお金をまきあげたんや。お前が生まれる前から、そして、お前が生まれてもあいつの行動は変わらなかった。わしはあいつに何度か生活を改めるように話したが、無駄だった。それでわしがお前とお母さんを守るために、お前たちと一緒に暮らすようになったんや。そして、お母さんがあいつに言った。あなたはもうこの家に必要ない人やてな。そして、あいつは家に帰って来なくなった」
「わしが死んで家に帰ってきたら、これまでの自分がいなかった時間を取り戻すように、お母さんをいじめるに違いない。残念ながら、そんな奴なんや。だから、お前に頼むんや。お母さんを守ってくれ。あいつを、お前のお父さんを家に入れてはいかん」

 じいちゃんは苦しい息を吐きながらそんな話をした。じいちゃんの話を聞いている和人も、じいちゃんの息苦しさが体に乗り移ったように、息苦しくてたまらなくなった。これまで父のことを考えたこともなかった。じいちゃんが和人にとっては父以上の存在だった。父を欲しいと思ったことはなかった。父のいる友達がじいちゃんのことで和人を羨ましがることはあっても、和人が友達を羨ましがることはなかった。でも、今日じいちゃんから、父という悪人の話を聞いて、不思議な気持ちになった。父に会ってみたいような気がしてきたのだ。父が自分のことをどう思っていたのか、聞いてみたくなった。でも、そんな気持ちは口に出さず、和人はじいちゃんの言葉を受け入れようと思った。父を拒否し、母を守ろうと思った。思うのだが、なんだか心に力が満ちる感じがしなかった。それでも、じいちゃんを喜ばせたくて言った。

「じいちゃん、俺、この前も言ったけど、母さんを守るし、じいちゃんも守るよ。俺の父はじいちゃんだから。いまさらどっかの人が父ですと言ってきても、俺そんなこと認めないよ」
 風が吹いてきた。病室の窓をじいちゃんが開けたのだ。


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