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ひかりみちるしじま(10)

 1968年は街頭でのベトナム反戦デモと並行して、大学内でも「生協闘争」と呼ばれた争いがあった。

 大学の生活協同組合(生協)が学生向けの学内食堂や書店を運営しており、生協の理事は大学教職員と学生自治会の代表によって構成されていた。
 生協に私が所属していた学生運動の党派のリーダーが現場の労働者として採用された。彼はこの大学にその党派の支部を作った人だった。学生自治会の執行部は別の党派が握っていた。

「学生さんに、いい物をできるだけ安く提供することと同時に、ここで働いている人たちに安定した暮らしを提供する、この二つの目的のために生協はあるんや」と話して、彼は生協で働く人たちの信頼を得ていった。
「大学生協」の「地域生協」への飛躍によって、学生、生協で働く人、地域住民の生活を改善できると主張した。生協の経営基盤を安定させ、働く人の給料を上げるために、生協で仕入れた安い食材を学校外の地域でも販売しようと言ったのだ。そして、理事会の許可を得ぬままに、地域での食材販売を始めた。
 生協で働く人たちは彼についていったが、理事会とは対立し、彼と彼に従った労働者が解雇された。

 生協闘争は、解雇された彼を支援する私たちと、大学当局および生協理事会の半数を占める学生自治会の執行部との争いとなった。5月に、私たちは、大学生協のあり方を問う集会を学生部前の広場で開いた。理事会の姿勢を批判する集会となり、結果的に、自治会執行部の役員たちを吊るしあげる会になった。

 7月に入ってすぐ、この集会を無許可の暴力的な集会だとして、他にも、街頭デモに出発する前の教室使用(担当教員の同意の上で集会を行った)を授業妨害だとして、私を含む三名の学生の停学処分が発表された。
 この日以降、街頭でのベトナム反戦デモと、学内での処分撤回の活動(ビラまきや、自治会や生協理事会を握る党派との論争や小競り合い、教授会への乱入など)に忙しく、私は授業にはほとんど出なくなった。

 そんなある日、学内でビラまきをしていると、「〇〇派はどうして暴力振るうんですかー」と叫んで、ビラの受け取りを拒否して通り過ぎていく女子学生がいた。思わず追いかけて、停学処分の不当性を話そうとすると、「聞きたくありません。暴力には反対です」と両手で耳を塞ぐ素振りをする。
 その場で説得するのは諦めたが、周りにいた学生にその女子学生の学部、学年、クラスを尋ねると、一人彼女を知っている学生がいた。

 その後2週間、彼女のクラスに出かけて、授業の合間に彼女に話しかけた。初めは私と話すこと自体を拒否していたが、だんだんに耳を傾けるようになり、一度、処分撤回の集会に来てくれる約束をした。
 その集会に、生協理事の一人が来て処分の正当性を主張したが、その話し方があまりに一方的で、会場からたくさんのヤジがとんだ。すると大柄な彼は、止めようとした学生を突き飛ばして途中退場してしまった。

「言葉と行為の間は、果てしなく開いているし、また紙一重に見える時もある。だからこそ、言葉には言葉で、行為には行為で立ち向かうべきだと思う。僕らが暴力的な行為を辞さないのは、国家権力や大学当局が力や権力で押さえ付けようとするからなんや」
 そんな話を、集会の後で彼女にした。それまでになく素直に頷きながら聞いてくれた。

 それから半年ほどして、大学本部のビルを封鎖する学生集団の中に、私も彼女もいた。学生処分の正当な理由を説明しないで、学生たちの様子を探るようなことばかりしている本部は閉鎖するべきだ、というのが私たちの主張だった。参加した学生は少数だった。本部職員の方がはるかに大勢いた。私たちは本部職員に突き飛ばされたり、二人がかりで体を持ち上げられて放り出されたり、暴力的に本部突入を阻まれた。彼女は人の体をすり抜けて一度は本部の中に入りかけたが、玄関の階段を本部の男性職員二名に身体を押さえつけられて、引きずり下ろされ、最後は数段上からどんと投げ下ろされた。

「どうして大学は、学生に暴力振るうんですかー」
 彼女は、私のビラを受け取らなかった時と同じようなことを叫んだ。
 それから数日後、女子学生にも躊躇せずに暴力的で手荒な扱いをした本部職員の振る舞いを訴える彼女の声に反応して、最初とは比べ物にならない数の学生が参加して、本部封鎖が実行された。

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