「デザイナー」を自称する「議事録係」

先日ある企業で「デザイナー」と称している人たちの集まりに出た。
そこで「何かが違う」と違和感を覚えた。

「デザイナー」には実に色々な種類がある。「デザイン」という言葉が意味するところも多種多様だからかもしれない。以前勤めた会社でこんなブログを書いたこともあったな。

「デザイン思考」でサービスデザインやってます、という「デザイナー」の90%は「議事録係」である。ワークショップをファシリテートし、自分は何もアイディアを出さず、お客様の言葉を付箋に書いて貼る。それを適度に誘導したり、まとめて資料にすると結構なお金がもらえる、という塩梅である。そうしたプロジェクトのアウトプットをみると「はて、これがあれだけの工数をかけて出来上がった結果なのか」と首を捻ることが多い。いや、工数が莫大にかかっているのはわかるんだよ。でも最終的なアプリの画面をみると「あれだけやってこれなのか」と思う。

私が考える「本当のデザイナー」は「議事録係」とは異なる。お客様が自分でも思ってもいなかったようなアウトプットを出すのをお手伝いするのが「本当のデザイナー」だ。そのためにはお客様の主張、状況、対象としている領域の現在を知るだけでは十分ではない。その上で深い思考と自分のハートに基づいた「デザイナー自身の主張」をお客様に理解してもらえる形で提示できなければならない。もう一段望むとすれば、「デザイナー自身の主張」を「お客様が自分で考えたこと」と思ってもらえれば満点だ。

G.M.ワインバーグに「コンサルタントの秘密」という著書がある。その中にこういう言葉がある。

「有能なコンサルタントがいる場所では依頼主が問題を解決する」
「自分の大成功を誇るコンサルタントは、ナプキンで靴をふく客のようなものである。彼らは二度と招かれることはない」

などと悶々と考えていた時、以下の記事を読んだ。

商標としての「デザイン思考」は結局ただのマーケティング用語に過ぎなかったということだろう。実際に機能するわけではないのだ。そして、今日に広く知られたプロセスとしてのデザイン思考もまた、自称“解決策”を継続的に生み出してはいるが、その解決策自体はそれほど革新的でも刺激的でもなく、文化的意義もない。デザイン思考がしていることと言えば、それを採用している企業の懐を温めることくらいなのではないか。

https://designing.jp/what-if-design-isnt-problem-solving

そして先日感じた違和感の理由がわかった。

あそこにいたのは「議事録係」の集団だったのだ。そこにいた「デザイナー」からは「何かが生まれる」という予感が微塵も感じられなかったから。

私は「議事録係」にはデザイナーを名乗る資格はないと思っている。では「本当のデザイナー」であるためには何が必要なのか。「それはアートだ」という何かを言ったような言葉で逃げはしない。

が、只今執筆中なのでちょっと待ってね。









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