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人生の振り返り(前期)

目次
小学生
中学生

小学生

・6年間サッカーチームに所属。
・良い子でいなきゃと思い続けていた

・6年間サッカーチームに所属。
小学校のチームに一年生のころから所属していた。幼稚園のときからサッカーはやっていたからなんとなく、特に動機もなく当たり前のようにサッカーチームに入った。小学生時代でなにか1つのことに関して努力する経験ってあまりないから、サッカーでうまくなるために努力するという経験は今にも繋がっていると思う。当時のコーチが読んだ方がいいと薦められた中村俊輔の本があり、その本にコーチが赤い線で大事なところをマークしてくれて、何回もよんだ。その本でサッカーノートというものを知って、サッカーノートもこの本をきっかけに作り始めた。その日の練習メニューや意識したことをまだ5年生とかの自分が書いていたと思うとかなり真面目だなと思う。けれど、それが当時は楽しかった。レベルは低かったが、なんとなくプロになりたいという思いがあって、そこに向かおうという気持ちがとても好きだった。

・良い子でいなきゃと思い続けていた
性格的には真面目でおとなしくて、いつも周りを見ていた。今の友達からみたらそんなことはないかもしれないけれど、とても人見知りで臆病だった。また、自分は長男だったこともあって人に甘えてはいけないと思っていた。甘えるのは弟のほうであって自分ではないといつしか我慢が日常になっていた。5年生くらいの頃、この我慢の象徴的なエピソードがある。いつものように弟が母親に甘えている姿をみて、いつもは我慢できたのにその日はなにかが弾けたかのように気がついたら母親に抱きついて泣き出していた。母親はなにかをそっと察したかのように僕を優しく抱きしめてくれた。「嫉妬」という感情をまだ知らない(大学生になってはじめて知った)からこそ、言葉ではなく行動で出てしまったのだと思う。

中学生

・先輩からのいじめ
・中2のときの手術
・都大会出場を決めた試合
・都大会での惨敗


・先輩からのいじめ
小学生のころからサッカーをしていたから当たり前のようにサッカー部に入った。そこでは1つ上の先輩にいじめられた。1つ上の先輩たちは最終的に東京都1位になるくらい強かった。だから上下も激しく、特に下手な選手は揶揄される日々だった。自分は技術的な面というよりは真面目に自分のポジションで働く面が評価されて、Aチームに入り続けていた。先輩からしたらこうゆう自分みたいな奴が格好の餌食。おばあちゃんに初めて買ってもらったスパイクを踏まれたり、あいつはいらねーだ、邪魔だと自分の聞こえるところで言われ続けた。だから練習に行きたくなくてクラスの掃除をわざと丁寧にやったり、放課後残りやすい係になったりしてなんとかやっていた。

・中2のときの手術
中2の春頃、体育祭の時期くらいから足の裏に違和感を感じ始めた。体育祭も1500mを担当していたが、辞退した。整形外科をいくつか回り、足の骨などが悪いのではないかと思って色々病院を回った。(4万のインストールも作った笑)しかし異常が見つからず我慢をし続けてきた。そこである時、母親が友達伝えに聞いた皮膚科があった。独特な薬の匂い漂う皮膚科。ここに行くとすぐに足の裏を切られ膿を取り出し、その後切り口が閉じたら手術が必要だと言われた。そこから切り口が治るまで4ヶ月ほどお風呂も足を濡らさず、部活は禁じられ、毎日皮膚科に行くことを余儀なくされた。ちょうど嫌いな先輩たちが引退し、自分たちの代になるという大事な時期。新人戦のメンバー発表で当たり前ながら自分の名前が呼ばれなかったことが悔しくてたまらなかった。その後、手術をし、4ヶ月同じような生活をして約8ヶ月プレーをすることはなく、もう自分の居場所はないと思っていた。

・都大会出場を決めた試合
怪我から復帰後自分には居場所がないと思ってたところにコーチがセンターバックにコンバートしないか?と提案してくれた。もともとFWをやっていた自分からしたらできるか不安だったが、試合に出れるのであれば、どこのポジションでも出たいと考えていたのですぐに承諾した。センターバックは自分の性格とかなり合っていてだんだん楽しくなってきた。そんな中で春の大会はあと1試合のところで負けてしまい、都大会出場を逃した。めちゃくちゃ泣いた。中学生になって初めて泣いた。その後絶対に夏の大会は都大会に出ると心に決め、練習に励んだ。順調に勝ちを積み上げ、自分はセンターバックながらブロック予選チーム得点王となった。(全得点コーナーからのヘディング)そして準決勝。ここで勝てば、都大会出場が決まる。しかし、この試合の前の前の試合で自分は足首を強くひねって、スタメン出場はしなかった。また、チームのキャプテンも前の試合で救急車で運ばれて出場はできない状態。そんな最悪な状況の中準決勝は始まった。防戦一方だった。得点できる気がしなくて、守備の時間帯が続いた。自分は後半からテーピングぐるぐる巻きで出場したが、守備ばかりで勝てるとしたら引き分けに持ち込んでPK戦にすることだと感じていた。これが本当に現実になった。決して守備が完璧だったわけではないが、相手のミスもありPK戦に持ち込めた。そしてPK戦。自分は5人目のキッカーをみづから志願した。ここで自分が決めてやるという未だかつてない強い意思があった。そして自分の前の相手キッカーが大きく外した。ここで自分が決めれば都大会出場。この瞬間はなぜか緊張はせず、入る気しかしなかった。結果はポストに当たってゴール。その瞬間にみんなで抱き合って、都大会出場を喜んだ。最高の瞬間だった。本当にこの瞬間が最高で幸せだった。


・都大会での惨敗
都大会出場を決めてから数日。去年先輩たちがサッカーをしていた舞台に自分は立っている。スタンドがあり、ロッカールームもあり、綺麗な人口芝で最高の環境だった。前半に2点先制して、前半を2-0で終えて余裕のムードで前半を終えた。完全に傲慢になっていた。後半、1点決められてから完全に狂った。焦りが出てきて前に前に出てしまい、あっという間に同点に追いつかれた。頭が真っ白になるとはこのことかといわんばかりの感情になった。本当になにも考えられなくなった。ここで全て終わると思うと体が動かなかった。気がついたら6点決められて、結果は2-6。ロッカールームで号泣しまくった。人生で一番泣いた瞬間だと今でも思う。あんなに声をあげて泣いたのは初めてだった。泣いていると普段は怖い監督が僕の頭を撫でてくれた。その後、チームのメンバーで一言ずつ引退になるので話してから解散した。その後、電車の中で監督がしゃがみこみながら目頭を抑えていたのを覚えている。この瞬間に「この人をここまで追い込んでしまったのだ」と後悔が押し寄せてきた。普段怒ってばかりの監督の見たこともない姿に自分も思わず泣いた。人生最高の青春だった。本気で勝ちたくて、努力して、負けて、本気で悔しくて、、こんな感覚を大人になった今も感じたかったのかなと最近思う。

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