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「霊長類研究所の解体」に向けての意見

 京都大学の霊長類研究所が解体されることになりました。解体した後は、まだ仮称ですが「ヒト行動進化研究センター」という組織に改編されるそうです。野外で野生の霊長類を調査するフィールド系の部門は京都に移り、思考言語分野と認知学習分野の心理学系2分野は廃止されます。松沢哲郎さん(懲戒解雇)を初めとする数名の研究者が研究費を不正に使用したことと、正高信男さんの複数の論文捏造が認定されたためです。松沢さんは判断がまちがっているからと裁判をすると聞いています。

 霊長類研究所では、フィールドワーカーが野生の霊長類を調べ、実験系の研究者が飼育している霊長類をテストして、フィールドや実験室だけでは分からなかったさまざまな現象を明らかにしてきました。それは「人間とはいかなる生物か」「ヒトの本質とは何なのか」を探る基礎研究です。基礎研究ですが、いろいろなところに応用が可能です。人文科学の、例えば哲学とか社会学にも応用可能なのです。海外には似た研究施設があるのですが、少なくとも日本では、唯一無二の研究所だと思います。わたしは霊長類研究所で大学院時代を過ごし、学位を得たOBですが、今でも自分の行ってきた研究には、他者がまねのできないものとして強い誇りを持っています。

 霊長類研究所の研究費に不透明な支出があるという噂は、もう何年も前から聞いていました。それが今回、会計検査院の調査で明白になりました。チンパンジーのおりを整備する契約で何億円という巨額のお金が不適切に使われていたそうです。普通の生活実感では想像もつかない額のお金です。それにしても、巨額とは言え、数名の研究者による不正使用です。70名からの職員がおり、大学院生や海外も含めて外部の研究者が始終出入りしている組織なのですから、お金の流れのすべてを秘密にするのは難しかったような気がします。誰も注意できなかったのでしょうか。それとも、注意するなど恐れ多いというカリスマ性が、特定の研究者にはあったということなのでしょうか。

もちろん、このような研究費の不正使用は研究を財政的に支えているすべての納税者への背信行為です。それとともに他の研究者にとっては、先人たちがせっかく長い歴史を通じて勝ち取ってきた「学問の自由」をおとしめる行為でもあります。佐倉統さん論座(2021年10月29日)に「京都大学霊長類研究所の閉鎖に反対する」と題して書いていることですが、

「おそらく京都大学側の認識は、霊長研(=霊長類研究所:三谷)はもはや『中核的な研究拠点』とはいえないというものなのだろう。今でも大学や学術のシンボルとして機能しているとみなしていれば、(霊長類研究所を:三谷)残す方向で検討したはずだ。大学内部にはその方向での意見もあったと聞くが、京都大学は、最終的には残したときに得られるメリットは多くないという判断をしたことになる。」

と、京都大学の、生態学や形態学、遺伝学などを欠いた「ヒト行動進化研究センター」への組織替え方針に反対しています。それとともに「選択と集中」という日本の科学技術政策全体の構造的な原因が、少数の研究者による研究費の不正使用を誘ったのだとも述べています。わたしもそう思います。今回の不正使用には、日本政府の科学政策にも原因があったようです。ちなみに佐倉さんは、ウエブサイトChange.orgで「京都大学は霊長類研究所の解体をやめてください!」というキャンペーンの「霊長類学および関連分野の研究者有志の会」の有志のお一人です。

 もう一点、ここでは他の人が、あまり気が付かない理由も挙げておきます。

 実はわたしは霊長類研究所の人事に応募したことがあります。その時は脳塞栓症でマヒと失語症の後遺症が残っていたのですが、その時、大っぴらにではないのですが、霊長類研究所のある方から、こっそりと「障害者手帳を持っている障害者を雇った方が組織運営上は都合が良いのだが、『障害者』という立場に甘えてもらっては困る。『健常者』と同じように働いてもらわなくては困る」という意味の言葉を投げられたことがありました。強い保守性を感じました。また、まるでガラパゴス島で発展したケータイ、「ガラケイ」のようだとも感じました。つまり世の中の流れである人権の理念を、あたかも、はやり廃れのある一時的な現象であって、明日になれば変わっているのだと言わんばかりの認識に、強い違和感を憶えたのです。この時の人事で、わたしが採用されることはありませんでした。

 現実に生きて生活をし、そして進化していく人間、あるいはヒトというものの全体像が見えていない、ヒト研究の射程に入っていないと感じています。先の言葉から、わたしは強くそう感じました。霊長類研究所の職員全体に渡る潜在的な認識なのかもしれません。何となく京都大学全体に漂う同じような気配も感じています。

 それでは「現実に生きて生活をし、そして進化していく人間とかヒト」とはいかなる存在でしょうか。セルゲイ・ガブリレッツ(Servey Gavrilets)という進化生態学者がおもしろい図(Gavrilets, 2010の図3.3)を発表しています。突然変異と種分化の過程を示す「適応度ランドスケープ(Fitness Landscapes)」の図です。「適応度ランドスケープ」とは「ヒトに認識できるように視覚化した子孫を残す可能性の図」とでもいうものです。デコボコが山や谷のように見えるから「ランドスケープ」なのでしょう。

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適応度ランドスケープ(Fitness Landscapes)(Gavrilets, 2010の図3.3)
(a)のように生き物の適応度は環境条件によって変化します。(b) のような単一の基準で適応度が決まると考えるのは「神話」にしか過ぎません。

 この適応度ランドスケープの図を、我われヒトに当てはめてみるとどうなるでしょうか。人びとが相争う現実の競争社会では、ひとつの基準で測った「成果」とか「達成度」とかいったものが尊ばれるのでしょう。しかし、我われが実感する社会は、ひとつの基準だけで生活しているわけではありません。仕事だけでなく、人には趣味やくつろぎの時間が必要です。一人の個人の中でも複数の基準が存在するのですから、多くの人がいる場合にはなおさらです。人間にはいろいろな才能があります。それが人間の多様性というものです。

 長い時の流れが必要なヒトの進化でも、同じだと思っています。わたしは先に、「霊長類学はヒトの本質を知るための基礎研究だが、いろいろなところに応用が可能だ」と書きました。例えば哲学とか社会学に応用した場合、多様な人が共存することを前提に議論しなければなりません。そして研究には、言語が違う人、基本的な発想の異なる人でなければ辿り着かない真実があるものです。「障害者」は「健常者」になりたくても成れない人、言うなれば「不完全な健常者」ではなく、さまざまな意味で「言語が違う人、基本的な発想の異なる人」の一種なのです。その意味では、「障害者」に「『健常者』と同じように働いてもらわなくては困る」と言う言葉が意味する画一性は、わたしには基本的に相容れません。

 この文章は「京都大学は霊長類研究所の解体をやめてください!」に賛同してほしいという訴えを受けて、自分自身の考えをまとめる意味で書きました。基本的には「霊長類研究所」という名前がなくなり、組織が解体されることは寂しく思っています。しかし、寂しいという感情論よりも、前向きに進むエネルギーが必要です。

 わたしは「霊長類研究所の解体」を認めます。それと共に、新たな霊長類学の再生を願っています。

Servey Gavrilets(2010)High-Dimensional Fitness Landscapes and Speciation. In: Massimo Pigliucci & Gerd Muller (eds.) Evolution-the Extended Synthesis, MIT Press

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