イースターの夜に

 よくも悪くも(おおむね悪い方に作用することが多い)自意識過剰だという自覚はあるので、自分に都合いいことも悪いことも「これは私に向けられているな」と思い込んでしまうことが多々ある。不特定多数に向けられたファンサを「オッこれはワイのファンレに対するアンサー」と思ったりするめでたい頭は、この自意識過剰が猛威を振るった結果だ。
 こういう性格の人間はSNSに向いていない。けど残念ながらこちとら承認欲求の塊で、何かと理由をつけてはいくつものアプリを手放せないでいる。やめときゃいいのにタイムラインを見てはいろんな人のいろんな意見に一喜一憂し、他人の発信だけでなく自分もポストするたびに「これをあの人が見たらどう思うだろう」「彼はこういうのは嫌いだろうか」と気にする。  

 けれど、私が気にしてるほど世界は私をメインキャストとして回っているわけではないし、他人は私の存在に重きを置いて生活しているわけではない。オメーのことなんて神様しか見てねーわ。
 しかし逆のことを言えば、何をしようと神様だけは見ているのである。私は世界のメインキャストではないが、神様は私が主演の物語をずっと見ている。私だけでなく、78億人分見ている。
 そこまで考えてやっと辿り着く自問自答、「私の生活の基準はどこにあるのか」。
 クリスチャンなのだから、もちろん生活の基準は神様であるべきだ。しかしどうだ、人目を気にしながらもでかい顔をしてタイムラインにのさばっている姿は、イチジクの葉を綴り合わせたぐらいで自分を取り繕おうとしたアダムとエバより浅はかだ。
 他人の目や自身の虚栄を基準にした生活は、ただでさえも過敏な神経をより摩耗させてしまう。正常な物事の判断などできるはずもない。  

 私の自意識は悪い方に作用することが多いが、いい方にというのはどういう時か。それは聖書を読む時だ。
 聖書のことばを「このことばは今の私に向けられている」と受け取ることができる。これは過剰ではなく、自意識が適切に働いている時ではないだろうか。そしてその適切な働きは、聖霊によるものである。そうでなければ聖書のことばを素直に受け止めることはできない。
 私が真っ当な人間として物事を考えられるのはいつも、自分の中心に神様がぴったりと合った時だということに気付かされる。
 たとえそれが聖書にまつわることを語っているのでも、自分の知識をただ垂れ流したりエゴから出る言葉を語る時は、物事の基準が自分にある。そこに神様がおられないのではなく、私が神様を無視しているのだ。
 この罪深さがキリストを殺した。私はそのことを忘れてはいけない。  

 聖書を語る時、私は「神のことば」を語らなければならない。それは自分が神になるという意味ではなく、神様から託されたことばを伝える責任感を持たなければいけないということ。私の語ることは神のことばだから皆従え、というのも違う。それを人は異端と呼ぶ。
 神様が私を用いられているという自覚と、適切な言葉と、真っ当な人間としての配慮。
 神様を基準とした生活とは何か。早寝早起き品行方正、というのではなく(もちろんそれに越したことはないのだが)、もっと芯の部分だ。何よりもまず神様を求め、神と人とに仕える生活。
 しかし、それが簡単にできれば誰も苦労はしないのだ。だから、せめてその愛を忘れないように、と祈る。  

 私が今地に足をつけて立っていられる理由を思い出せ。今まで何に助けられてきたか。
 お祈りしてます、という言葉は私にとってはそれ以上ない励ましになるのだけれども、人によってはそれが余計なお世話だったり何の解決にもならない言葉だったりする。
 確かにそうなのだ。私が祈っても病気は即座に治らないし現金も降ってこないしコロナウィルスが世界中から一瞬にして消えることもない。
 それでも私は毎朝、好きな人たちの顔と名前を思い浮かべながら祈る。いつか面と向かって「私はあなたをいっとう愛している」と言える日を望みながら。途方には暮れるが絶望もしない。
 道を踏み外さず、歩幅が乱れず、まっすぐにそこへ向かえるように。  

 決意の後に気付きが来た、口内炎の痛むイースターの深夜。

#おぼえがき
#クリスチャン

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