ひまわり泥棒コバト 8

 午前3時までには寝る。昼前には起きる。開店前にちゃんと飯を食う。俺が生活する上で心がけているのはこのみっつだ。
 店が休みの日でも寝る時間と起きる時間はできるだけ守るようにしている。一人で暮らしているとおろそかになりがちなことを、できるだけ自分でコントロールできるようにならなければ。

 今朝は少し早く目が醒めた。9時半を少し回ったところ。俺は散歩に出かける。今日は月曜、店は定休日だ。
 ぐるりと遠回りをしてコンビニへ寄って、漫画雑誌を立ち読みする。先生の漫画は、今週は……あった。俺は毎週こっそり、こうして先生の漫画が載っているかどうかチェックしているのだ。
 先生の漫画は連載の途中から読み始めたので正直俺はまだストーリーを把握しきれていない。たぶん、この黒い髪をツンツンに立たせた少年が主人公なんだろう。
 先生の絵は線が太い。曲線はあまりなくかくかくしていて、つるりと丸い形の頭をしている先生本人のイメージとは少し違う。俺は絵なんて専門外で、漫画の良し悪しもよくわからない。けれど毎週(ではないこともあるけど)こうして原稿を仕上げる先生は偉いと思うし、先生の絵はなんとなく、好きだ。元気がいい。
 俺はぺらぺらの表紙を曲げてしまわないようにそっと雑誌をラックへ戻し、水とチョコレートだけを買ってコンビニを出た。何も買わずに立ち読みだけして店を出るのは気がひけるけれど別に今ここで買わなければいけないものもない。今の俺が買える精一杯がこれだ。
 少し歩くと、鈴木さんの家の前に縁台が引っ張り出されていた。またささやかな将棋大会が始まっている。そこにはコバトさんもいて、コバトさんは縁台の側に立って鈴木のおじいさんと斎藤のおじいさんの対局を微笑みながら見守っていた。
「こんにちは」
 俺が挨拶をしながら前を通り過ぎようとすると、コバトさんはふと顔を上げ笑い皺を深くした。
「こんにちは。お散歩ですか」
 コバトさんはふわふわと頭を揺らしながら言う。小さなコバトさんは、立っていても俺の顔を見上げる低さだ。
「はい」
 声をかけられつい足を止めてしまった俺は、その後の言葉が続かない。俺は外に出ると、店にいる時のように気の利いた返しができない。むしろ、店にいる時ですらお客と話すときにいつも緊張しているのだ。
「大将、これどう思う」
 太った方、斎藤のおじいさんが顔を上げて俺に訊いた。禿げ上がった額に汗が浮かんでいる。「コバトさん、なァんにもアドバイスくんないんだ」
 ケイマでキン取ってもこっちにギンがいるだろ、でもこっちへ逃げるとそこのカクがだーっときて終わりだろ。斎藤さんの言っている意味がさっぱりわからない。ただ、斎藤陣営が不利だということだけは把握した。
「いや、俺、将棋あんまり詳しくなくて」
「あ、そうなの」
 すまんかったね、と斎藤さんはちょいちょいと手を挙げた。
「なんだい、将棋の駒みたいな顔してンのになあ」
 斎藤さんの向かいで縁台を跨いだ鈴木さんが痩せた喉でからからと笑う。俺はハハ、と笑ってみせてから自分のえらを指でなぞった。否定はしない。俺の顔はまあまあ四角い。
 どうしよう。このまま何も言わずに場を離れるのもおかしい気がするし、かと言って俺にできることはもうない。掌と脇に変な汗をかき始めた。
「大将、朝ごはん食べました?」
 助け舟を出してくれたのはコバトさんだ。コバトさんはとても自然に、いつものように笑ってくれている。
「いえ、まだ。というか、朝は食べない方なんで」
「それはいけない」
 コバトさんはそう言って、すすっと俺の隣へ来た。「一緒にどうです。僕もまだなんです」
 歩き出そうとするコバトさんに、おじいさんたちはおいおいと声を投げかけた。
「次コバトさんの番なのに」
「また後で通りかかった時にやってたらお相手しますよ」
 コバトさんは手を振り、行きましょうかと俺に言ってから歩き出した。俺は二人に会釈してからコバトさんの後を追う。もしかしたら、コバトさんも立ち去るタイミングを見計らっていたのかもしれない。
 少し歩いてから、コバトさんはくすくすと肩を揺らして笑った。
「どうしましょうか。本当は僕、朝ごはんとっくに食べちゃってるんです」
「嘘つきだ」
 俺も笑った。昔、俺が初めてコバトさんのことを知った頃にコバトさんと話す機会があったとして、俺たちはこんな風に笑って話すことができていただろうか。ハメハメハと話したぜ、と昔の友達に自慢したい。

 ハメハメハ。それが俺の知っているコバトさんのあだ名だ。コバトさんは俺が通っていた中学校の一年先輩だった。
 当時からコバトさんは少し変わっていて、雨が降ると必ず学校を休んでいた。それでついたあだ名が「ハメハメハ」だ。校内ではちょっとした有名人だった。
 コバトさんがハメハメハだった頃、俺たちは直接会話をしたことがなかった。学校の廊下ですれ違った時も俺が一方的に「向こうからハメハメハが来るぞ」と思っていただけで、きっとコバトさんは俺のことなんて知らなかっただろう。
 俺は楽しい中学時代を過ごした。と、思う。だから地元から離れたこの町で自分の店を持ち、コバトさんに会った時はとても嬉しかった。できればコバトさんと当時の話をしてみたいと思った。名物教師の思い出話とか、理科室の幽霊は本当にいたのかとか、あの頃ほとんどの男子生徒が憧れた生徒会長で女子テニス部の部長でもあった佐々木先輩の話とか、「コバトさんも有名人だったんですよ」という話とか。
 けれどコバトさんは、たった一言で自分の立場を俺に伝えた。
「今僕、コバトさんって呼ばれてるんですよね」
 彼はハメハメハではなくなり、俺も焼鳥屋になっていた。少し寂しかったけれど、俺は今のコバトさんも嫌いではない。

 俺は結局コバトさんの家へ招かれてそこでトーストを一枚焼いてもらい、コバトさんの淹れてくれたコーヒーと、コバトさんのよそってくれたサラダも一緒に頂いた。コバトさんも自分のコーヒーを淹れ、俺に付き合ってくれている。
 コバトさんの家へ来るのは初めてだった。小さな平屋で、庭には草花や野菜が植わっている。出してもらったサラダも、庭の野菜なのだそうだ。俺たちは狭い台所に置かれた小さなテーブルを挟んで向かい合って座っている。基本的には人を招くことがないそうで、コバトさんは別の部屋からもうひとつ椅子を持ち出してきて座った。
 先生も編集さんも、コバトさんの家を知っている。先生は仕事をさぼりに、編集さんは自分の仕事のために。そして俺は、朝ごはんを食べに。
 ふと俺は、コバトさんも編集さんの家を知っているのだということを思い出してしまった。これまでコバトさんが誰かの、ましてや女の人の家へ行くだなんて聞いたことも想像したこともなかった。しかしあの日、確かにコバトさんは編集さんと連れ立って店を出たのだ。
「あの、こないだ」
 口下手な俺だけれど、好奇心は人並みにある。
「こないだ?」
 コバトさんは柔らかく笑って俺の目を見る。
「編集さんのお家、行ったんですよね」
「ああ、行きました行きました」
 コバトさんはウンウンと頷きながら答えた。「でも、僕の織った布は引き出しにしまわれてたんです。使ってないんだな、と思ってちょっと残念で、それで帰ってきました」
「帰ってきちゃったんですか?」
 自分でも思ったより大きな声が出て、俺は少し恥ずかしくなった。コバトさんはおかしそうに笑う。
「帰ってきましたよ。女性の家に長居もできないでしょう」
「そう、ですね」
 ほっとしたような、残念なような、少し不思議な気分だった。あのコバトさんが女の人とどうにかなるなんてちょっと面白い話だとは思うのだけれど、そうなってくると今度は先生がかわいそうだ、とも思う。先生がコバトさんのことをどう思っているか、コバトさんだってわからないわけではないだろうに。
「大将はもう半袖なんですね」
 コバトさんはそう言ってコーヒーを啜った。編集さんの話はもう終わりらしい。
「梅雨も明けたし。もう7月ですよ」
 俺は言った。Tシャツを着た俺に対して、コバトさんが着ているのは薄手ではあるもののまだ長袖のシャツだ。色が白なだけまだ涼しげだけれど。
「そうですね、やっぱりそろそろかなあ」
「コバトさん、今年は着ないんですか、去年みたいな派手なシャツ」
 去年の夏、コバトさんはとても派手な色合いのアロハシャツを着回していた。普段は地味なくせに、夏だけは派手になるのだ。
「地味なのを探してるんですけど、なかなかないんですよね。地味なアロハシャツって」
 コバトさんがそう言いながら笑うので、俺も笑ってしまった。
「アロハがいいんですか」
「夏はそうですね、アロハシャツがいいです」
 コバトさんは、まだ少しだけハメハメハだった。


(学校嫌いなこどもらで風が吹いたら遅刻して雨が降ったらおやすみで)

#小説

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