ひまわり泥棒コバト 15

 コバトさんの庭は青臭い。トマトを育てているからだ。私はトマトが嫌いだ。火を通せばいいのだけれど、生トマトのあの香りが子供の頃から苦手だ。プチトマトですら許せないものがある。私は生涯トマトとは仲良くなれない。
 コバトさんの青臭い庭に入る前に、私はいつものように門扉の呼び鈴を押す。ビィ、と古めかしいブザーが家の方で鳴り、しばらく待つとコバトさんが玄関から顔を出した。イエローのアロハシャツ。
「今日はいらっしゃらないのかと思ってました」
 そう言ってコバトさんは笑い皺を深くした。私はいつもコバトさんの家には朝の出勤前の時間に寄るのだが、今日は定時で会社を出てそのまま家を素通りしここまでやってきた。夕方を通り過ぎたがまだ明るい午後7時前。この時間に私がここを訪れるのは、たしかに珍しい。
「少し出方を変えてみようかと」
「そうですか。でも」
「でも、取材はお断りなんですよね」
 台詞を先取りして言ってやると、コバトさんは困ったように笑う。
「わかってて来るんですね」
「今日はお食事のお誘いに。『やま』へ行くんです。ご一緒にいかがですか」
 青臭い庭を隔てた距離での会話だ。私の問いにコバトさんは少し考えるような仕草を見せた。
「今日も行くつもりでいます。あとで向かいますので編集さんはお先にどうぞ」
 そう言ってコバトさんはまた家の中に引っ込んでしまった。まだ仕事が残っているのだろうか。そう言えば私はまだ、コバトさんが実際に布を織っているところを見たことがない。鶴の恩返しのように機を織る姿を見られてはいけない、なんてことが――あるわけないか。彼は不思議な空気を纏っているけれど鶴でも鳩でもなく、コバトというただのひとりの機織り職人なのだ。

 しかしなんとまあ、金曜の夜だというのに空席があるこの店は本当に大丈夫なのだろうか。私はカウンターの一番奥の席に着いた。奥からひとつ手前はコバトさんの、そして一番出入り口に近い席は相撲と将棋の好きな太ったおじさんの定位置だ。おじさんの今のお気に入りは御嶽海だということを、大将との会話(と言ってもほとんどおじさんばかりが喋っているのだけれど)から知る。
「大将、生と……今日はとりあえずぼんじりと、砂肝ひとつずつ」
「はい」
 前々から思っていたことなのだけれど、この大将はあまり焼鳥屋の店主らしくない。はいよ、だとか注文を復唱してみるだとか、そういった威勢のよさがないのだ。しかし無愛想なわけでもない、大将は人と会話をする上で何かが下手くそだ。
「コバトさん、後から来るそうです」
 おじさんの話が一区切りついたところを見計らって、私は言った。
「そうなんですね。会ったんですか」
 言いながら大将は私に中ジョッキを渡してくれた。きんきんに冷えたジョッキにしゃりしゃりの泡。白と金色の割合は黄金比率で、私はこの店のビールがお気に入りだ。
「さっきコバトさんのお宅に寄ったんです。まだお仕事でしょうか」
 私が言うと、大将は不思議な苦笑いを見せた。
「たぶん、ご飯食べてるんですよ」
「は?」
「夜ご飯食べてから来るんです、コバトさん。いつも」
 よく意味がわからなかった。ここは食事をする場だ。焼鳥屋。間違いない。だって目の前で大将は炭火の上の串をくるくると返しているもの。
「ここで飲み食いしますよね、あの人」
 私は大将に訊いた。
「でもお腹いっぱいにはしないんです。おつまみ程度」
 大将は苦笑いのまま答えた。
「もったいない……」
「お肉、食べないでしょうコバトさん」
「確かに」
 私は頷くしかなかった。コバトさんは肉を口にしない。大将は彼に、自慢の塩味の焼鳥を食べさせたことがないのだ。一番のリピーターが店のメインを食べないだなんて、なんだかかわいそう。
「もったいない、って思ってくれますか」
 ぽつり、と大将が言った。
「思います。タレないのかよって最初は思いましたけど、今はおいしいと思って食べてますよ」
 私は素直な気持ちでそう答えた。「やま」の焼鳥は確かに腕のいい店主が焼いた、とてもおいしい食べ物だ。
「よかった」
 大将は笑った。背が高く四角い顔をしているので一見厳つく見えるけれど、案外にあどけない顔をするのだった。

 私が2杯目のビールに口をつけた頃、ようやくコバトさんがやってきた。イエローのアロハシャツ。今日のコバトさんが最初に注文したのは、焼酎のお湯割りとシシトウと塩キャベツだ。
「お家で何食べてきたんですか」
 私が訊くと、コバトさんは少しだけ不思議そうに首を傾けた後笑った。
「納豆ご飯と、トマトのスライスとお豆腐です」
「トマト」
 私は顔をしかめてみせた。生トマトは私の敵だ。
「お嫌いですか、トマト」
「ええ」
「この店にもあるのに」
 言って、コバトさんはラミネートされたメニュー表を裏返してすっとある一行を指差した。「トマトスライス」。
「失礼。でも、トマトが嫌いだからと言って、トマトスライスを出すこの店を嫌いになることはありません。ここはおいしい焼鳥屋ですから」
 私はメニュー表をさらにひっくり返し、ずらりと並んだ焼鳥のラインナップを指した。「お嫌いでしょう、お肉」
「嫌いじゃないんです。食べないだけで」
 ころころと笑い、コバトさんはシシトウを齧る。焼鳥屋で焼鳥を食べず、腹を満たすほど飲み食いするわけでもなく、ただ静かに焼酎を舐め店主や他の客との会話を楽しむだけの、コバトさん。大将はそれでいいのだろうか。
「焼鳥食べないのにどうして行きつけが焼鳥屋さんなんですか」
「このお店が好きだからです」
 コバトさんは悪びれずそう言った。私がちらりとカウンターの方を見ると、大将は困ったように眉を下げて笑っている。その人はそういう人だから、という声が聞こえてきそうな顔だ。
 大将はコバトさんのことを「お客さん」だ、と言っていた。けれど毎日のように来るくせに焼鳥を食べないコバトさんを疎ましく思っているような様子はなく、そういう人だから、の一言で受け容れる。ただの「お客さん」にしてはコバトさんの人となりをよく知っている、と私は思っていた。
 コバトさんを二度家に泊めてやった私は、まだ彼のことがわからない。「そういう人」で片付けられるほど単純な人間ではないような気がするのだ。私がしつこくコバトさんを追うのは、その複雑さを少しでも紐解きたいという欲求なのかもしれない。事実、今日の私は取材の依頼ではなく食事のお誘いのために彼の家を訪れている。

 あともう一押し。あともう一押しで、私は仕事のことを抜きにしてもコバトさんと何かしらの関係を築けるかもしれない、と踏んでいる。


#小説

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