ひまわり泥棒コバト 14

 コバトさんの庭は青臭い。トマトを育てているからだ。わたしはトマトが嫌いだ。あの、ぬるりとした種の食感と匂いがだめなのだ。たとえコバトさんに勧められたとしても、食べることはできないだろう。子供の頃からそうだ、わたしは生涯トマトとは仲良くなれない。
 わたしは青臭い庭の間を通ってコバトさんの家の玄関まで行くことができる。勝手に入って来てもいい、とコバトさんに以前言われたけれど、それはさすがに気がひける。
 いつものようにコバトさんの家の門扉に手をかけると、後ろから声をかけられた。
「奥さん」
 振り返ると、郵便配達のおじさんがにこやかにバイクにまたがっていた。「郵便です」
 わたしはこの家の「奥さん」ではないけれど、その言葉の響きにえも言われぬ情緒があるような気がしてそこに立ちすくんでしまった。そしておじさんから差し出されるままに封書を受け取り、バイクが走り去るのを見送る。手元にあるのは、コバトさん宛の郵便物だ。
 自分の心臓がとくとくと早く脈を打つのがわかった。わたしはコバトさんの本当の名前を知らないけれど、わたしが今手にしているのは携帯電話会社からの封筒だ。きっと中身は利用料金の明細か何か。これが届くということは、コバトさんが携帯電話を契約している、ということ。契約をしている、ということはそこにコバトさんの名前が記されている、はずだ。
 ――開封して中身を見るわけではないのだし。わたしは好奇心に負けた。紙でできた封筒についた小さな窓から見える、明細に記された宛先に恐る恐る目を落とす。
「小坂左千夫」
 コサカサチオ、と読むのだろうか。住所はこの家で合っている、はずだ。すなわち、これがコバトさんの名前。
 焼鳥屋の大将も、焼鳥屋にやってくる将棋じじいたちも、皆彼を「コバトさん」と呼ぶ。わたしも今までそうだった。きっと誰も、コバトさんの名前を知らなかっただろう。
 しかしわたしは今、知ってしまった。コサカサチオ。なんだかコバトさん「ぽい」ような気もするし、「ぽくない」ような気もする。

 封筒を持ったまま玄関の呼び鈴を押すと、中でビィ、とブザーが鳴った。古臭い音だ、といつも思う。
 しかし今日はコバトさんが現れない。留守かしら。もう一度押す。ビィ。コバトさんは出てこない。わたしの脳裏にあの朝の光景がよぎる。白いドアとコバトさん。またあの女の人の家にいるのかな、など。
 封筒は郵便受けに戻して今日は引き返そうか、と考えていると、中で物音がしたような気がした。機織りのぱたん、という音ではなく、ずるり、となんだか鈍い音だ。こわごわドアノブに手をかけると、なんと鍵は開いていた。
 僕がいる時は勝手に入ってきてもいいんですよ、とコバトさんが笑ったのを思い出す。入るぞ、わたしは。入るんだぞ、勝手に。
「コバトさん……?」
 玄関を開けると蚊取り線香の匂いがした。いつものコバトさんの家の匂いだ。三和土から上がってすぐ右は機織り機のある部屋。その一つ奥はキッチン。キッチンの手前で左に曲がると奥にトイレ(なんとコバトさんの家のトイレは汲み取り式だ)があり、廊下の左にあるすりガラスの引き戸の向こうは和室で、六畳間がふたつ繋がっている。
 機織りの部屋は誰もいない。わたしは和室の戸の前へ進み、がらりと開けてみた。和室には小さな座卓とテレビがあって、その向こう側にあるもうひとつの和室へつながる襖は薄く開いていた。ずるり、という音はその奥の部屋から聞こえる、気がする。
「コバトさあん」
 わたしは襖をそっと覗いてみた。それはなんだか不思議な光景だった。畳の上に薄い網のようなものが広がり、中央の盛り上がりがもぞもぞと蠢いている。目を凝らし、その盛り上がりがコバトさんだということがわかった。仰向けになり胸の前にある両手で網を掴んでいる。その姿が羊膜に覆われた赤ん坊のように見え、わたしは少し笑ってしまった。
「ああ、ちょうどいい所に。助けてください」
 いつもの笑ったような声でコバトさんは言った。
「何、してるんですか」
「蚊帳が壊れてしまって、困ってたんです」
 コバトさんはまだもがいている。わたしも蚊帳の傍にしゃがみ込んで、網を手繰って蚊帳の出口を探した。
 蚊取り線香の匂いの染み付いた和室では、扇風機が首を振っている。やっと蚊帳の出口を見つけ中にいるコバトさんの腕を掴むと、じっとりと汗ばんでいた。こんな部屋で寝ていては熱中症になってしまいそうだ。
「はあ、助かりました。ありがとうございます」
 蚊帳から抜け出しながら、コバトさんは額に張り付いた前髪を払う。夏でも寝巻きはさすがに地味だ。白のTシャツにグレーのハーフパンツ。
「コバトさん、生まれたての何かみたいですね」
「何かって、何です? せめて特定してください」
「じゃあ、子鹿」
 わたしはコバトさんの細い足首を見ながら言った。子鹿は産まれてすぐに立つが、コバトさんは蚊帳との格闘で疲れてしまったのか、座ったまま笑っていた。
「はあ、驚いた」
 コバトさんは笑いながら息をついた。
「ずっとモダモダしてたんですか、網の中で」
「いえ、本当についさっき目が覚めたんです。そしたらこれでしょう」
 これ、とコバトさんは蚊帳の一部をつまんで持ち上げた。「どうなることかと」
「来てよかったです」
「本当に」
 よかったよかったとコバトさんはしきりに言っているけれど、どうせわたしが来なくとも時間が経てば自力で出られただろうに。でもまあこうしてひとつ恩を売ることができたのだから、わたしもこれでいい。
「あ、そうだ」
 わたしは、救出作業の間床に放り出していた封筒の存在を思い出した。手を伸ばしてそれを拾い上げ、コバトさんに手渡す。
「あ、郵便屋さん来ましたか。郵便屋さんが来る時間ということは、相当寝坊してしまいましたね」
「はい。なぜかわたしに渡してきたのでつい、受け取ってしまいました」
「ありがとうございます」
 コバトさんは封筒を受け取り、それが携帯電話の明細だと知るとなあんだ、と笑った。もっと大事な郵便物でも待っているのだろうか。
「コ」
 わたしは声を出しかけ、はたと止めた。コサカさん、と試しに呼んで見たかったけれど、そう呼んで彼はいつものように笑ってくれるだろうか。コサカさんがコバトさんを名乗るのには、わたしが滑川スネ子を名乗るよりももっと深い理由があるような気がする。小坂左千夫という名前に対して、わたしは慎重である必要があるのかもしれない。
「どうしました?」
「コバトさん」
「はい」
「……今日は機織り、しませんか」
「しましょう、しましょう。先生、お仕事さぼりに来たんでしょう」
 コバトさんはそう言って、やっと立ち上がった。凝った右肩をとんとんと叩く。わたしも一緒に立ち上がる。わたしのために彼は、今日も機織り機を動かしてくれるのだ。
 わたしは彼のよい友人でいられる自信がある。彼の隣にいればいるほど、わたしの望みからはまた遠ざかる。彼の隣で布を織れば織るほど、わたしの仕事は滞る。


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