ひまわり泥棒コバト 5

 編集さんはきっと、仕事熱心な人なのだと思う。今日もコバトさんを探しにうちへやって来た。まだ開店前、仕込み中の午後3時だ。
「大将、コバトさんはいらしてますか」
「…………」
 本当はすぐ返事をするべきなのだろうけど、俺はうずらの卵を茹でなければいけない。今やっとお湯がぐらりと湧き始めたところで、ほんの数秒で硬さが違ってきてしまうから今はそちらよりこちらの事情を汲んでほしかった。
「ねえ、コバトさんは」
「待ってください」
 俺は鍋の中でことことと揺れるうずらの卵を睨みつける。今だ。さっと鍋をコンロから外し、すぐに水に浸けて冷やす。これで中がとろとろのうずらのゆで卵が出来上がり。
「ね、コバトさんは?」
「コバトさんはお客さんなので」
 俺が言うと編集さんはきょとんとして俺を見た。そんなことは知ってる、と言わんばかりの顔。
「だから?」
「だから、開店前は来ません。お客さんはお店が開いてから来るんです」
「……そう、ですね」
 編集さんは頷きはしたけれどどこか腑に落ちないような風だ。「すみませんでした。大将と仲が良さそうだったので、もうここにいるかも、と」
「ぼくはコバトさんの友達じゃあないので……」
 言ってから、俺は少しだけコバトさんに気の毒だなと思ってしまった。友達でないことは本当だけれど、俺はこの町の誰よりもコバトさんのことを知っている。昔のコバトさんを知っている。知っているからこそ、コバトさんがコバトさんで居続けるために協力するようになっていた。
「じゃあ、コバトさんのいそうなところ知りませんか」
 仕事熱心な編集さんは焼鳥屋の店主からもこうして情報を聞き出そうとする。探偵か刑事みたいだ。
「わかりません。コバトさんはああいう人だから」
 どこにでもいるようで、いそうな所にいない。ひとところに腰を据えるのが好きなように見えて、実はふらふらとしている。それがコバトさんだ。
「そうですか。……お忙しい中すみませんでした」
 ぺこり、編集さんは頭を下げるととぼとぼと店を出て行った。集中しすぎると周りが見えなくなるタイプなのかも知れない。引き戸が閉まる直前に見えた小さな背中は、コバトさんを見つけることができるだろうか。

「碁会所に避難してたんですけどね、僕」
 笑いながらコバトさんは今日も焼酎を舐める。近所に碁会所があるだなんて俺は知らなかったけれど、コバトさんの隣でぼんじりを噛みしめている編集さんが一緒にいるということは、確かにあるのかもしれない。
「コバトさんからは年寄りの匂いがしたので、年寄りの集まるところにいるんじゃないかと思ったんです」
 食べきった串を串入れの竹筒に放り込みながら編集さんが言った。俺は年寄りの匂いというものを具体的に想像できなかったが、なんとなくわかる気はした。俺も店が休みの日に散歩をしていて何度かコバトさんが近所のおじいさんおばあさんと話しているのを見かけたことがある。この町にはまだ家の前に縁台を引っ張り出して将棋を打っているような人がいて、コバトさんは時々そこに混ざり、王手、なんて呟いていたりするのだ。
 深い笑い皺を持つコバトさんは、その皺に過去のさまざまを挟んでいる。そんなコバトさんだからこそ碁会所だとか縁台の将棋だとかに混ざっていても違和感がないのだろう。
 俺の記憶が正しければ、コバトさんは今年32になる俺と一つほどしか歳は違わないはずなのだけれど。
「でもね大将、この人囲碁なんか打てないんです」
 編集さんは左手に中ジョッキを持ち、右手に持った砂肝の串でコバトさんを指した。コバトさんは肩を揺らして笑う。
「表と裏が同じ色をしてるから、オセロとは違うということはわかります」
 それくらいなら俺にもわかる。でも俺だって碁の打ち方なんて知らないし、どうせ編集さんだって知らないんだろう。知らなくたって碁を打つ年寄りの集まりに飛び込んでいいはずだ。この町の年寄りはみんなコバトさんのファンだもの。
「本当に、ただ私から逃げてただけなんですよね」
 言って、じとりとした目でコバトさんを睨みながら編集さんはビールをすすり込んだ。上唇に白い泡がつく。
 二人が連れ立って来店したのを見て、俺は初めついにコバトさんが折れたのかと思ったのだが、どうやらそうでもないようだ。
 碁会所でコバトさんを見つけた編集さんはいつものようにコバトさんに食い下がったらしい。しかしこちらもいつものようにコバトさんは飄々とかわし続け、逃げてきたコバトさんを編集さんが追いかけてここへ流れ着いた、というわけだ。
「ここまでしつこいのは編集さんが初めてです」
 コバトさんは言った。
「そのしつこさに免じて、お願いします」
 編集さんが身を乗り出す。
「嫌です、お酒を飲みながら仕事の話をするような人が編集してる雑誌は」
 コバトさんは湯葉を口に運び、唇についた豆乳を指で拭って笑う。「どうして僕なんです?」
 コバトさんに訊かれ、編集さんは少しぼんやりと考え込んだ。模範解答を探しているのだろうか。あなたの作品が素敵だから、とか。その才能を埋もれさせたくないから、とか。
「……私、コバトさんの作品を一枚だけ持っています」
 編集さんがぽつりと呟いた。
「へえ」
 コバトさんはそこでやっと話に興味を持ったかのように目を上げた。「どうして?」
「秘密です」
 初めて興味を持たれたことに得意げになったのか、編集さんがニヤリと笑う。
「ずるいですね」
「見に来ればわかります」
 また、ニヤリ。「どうです、これから私の家に来ませんか」
 それはさすがに踏み込みすぎではないだろうか、と俺は思った。俺の頭の中には下世話だけれどまくら、とか色仕掛け、なんて言葉がふわふわとよぎり始めた。時間は午後7時。ううむ、布を見に行って帰るだけならまだ大丈夫な時間だろうか。
 しかしコバトさんが「行きます」だなんて言うだろうか。今日、ついさっきまで逃げ続けていたコバトさんが。
「行きます」
「えっ」
 驚いて声を上げたのは俺で、コバトさんと編集さんは慌てて口をふさぐ俺を見て笑った。
「言いましたね、来る、って」
 編集さんは視線をコバトさんに戻しながら言った。
「ええ。僕の手を離れたものがどんな家にどんな風に置かれてるのか、僕は少し興味があるんです。でもそれを見るのはなかなか叶わないことでしょう。チャンスじゃないですか」
 コバトさんはタンブラーの中の焼酎を見つめながら言う。
「なら、今から」
「まだ。湯葉を食べ終わってからにしましょう」
 そしてコバトさんは、本当に編集さんと一緒に店を出て行った。二人の会計は、今日は別々だ。

「あれ、今日もうおしまいですか」
 8時を回った頃に先生がやってきた。眼鏡が鼻の先までずれている。
「いや……暇だっただけです」
 コバトさんたちが帰ったあとの後片付けをしてからカウンターでぼうっとしていたのは俺一人だ。今日はちっとも客が来ない。
 俺は慌てて立ち上がりカウンターの内側へ回った。小ジョッキに生ビールを注ぎ、レバーを2本準備する。先生が注文する前に。
「大丈夫ですか、この店。生と、レバー2本」
 席に着きながら先生が言う。
「別に、先生が今日初めてのお客じゃないですよ」
 俺はジョッキを差し出しながら言った。
「今日はコバトさんいないんですね」
 そう言ってから先生はジョッキに口をつけた。
「……さっきまでいましたよ」
「珍しい。いつも長居するのに、あの人」
「用事ができたって」
「あの人あるんだ、用事とか」
 先生は一人で笑っている。コバトさんがいないから、今日の先生はきっと湯葉を注文しない。
 俺はなんだか、少しだけ先生が気の毒に思えてしまった。

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