ひまわり泥棒コバト 17

 いくら電話をかけても捕まらない作家がいる。やっと連絡がついたのが昨日で、彼は「明日なら会える」と言う。土曜の午後を指定してきた彼はきっと、普段通りならば私が土曜休みだということを知っている。腹が立つ。腹は立つが、彼の作品はやはり面白いのだ。
 彼を手放すことは我が社の痛手になる。私も社会人としてそれをわかっていて、休日を返上して彼に会いに行った。彼の本業は小説家だが、以前にいた部署で私が彼の処女作の出版に携わった縁でルオーノにも毎号短いコラムを連載してもらっている。のだが。

 その作家、大船吉三朗は遅筆だった。というよりも、書き始めてからは早いのだけれどとりかかるのに時間がかかるのだ。
「大船先生、原稿を」
「あと3時間あれば完成品が渡せます」
 大船吉三朗はやんわりと微笑んだ。彼はペンネームの仰々しさに反して、実は私より少し年下の優男だ。
「先生、私は15時、と言われたので時間に合わせて来たんですがね」
 指定された時間にやって来て、原稿がまだできていないと来た。こういうことは初めてではないけれど、今日は何と言っても休日出勤だ。原稿が貰えなければここへ来た意味がない。
「昨日あなたの電話を受けた時は、この時間にできてる算段だったんだよね。でも不思議なことに色々とやることが増えてしまって気がついたらこんな時間」
「やること、とは?」
「掃除とか、洗濯」
「……仕事がしたくなかったんですね」
 今日ここへ来た時、やけに部屋がきれいだと思ったのは間違いではなかったようだ。大船先生は本来、掃除が苦手で洗濯物も溜め込みがちだ。たまに私が原稿を急かしながら洗濯機を回すこともあった。
「何か適当に話をして。その間に書くから」
 大船先生は部屋に誰かがいると筆が捗るという奇妙な癖がある。もちろん一人の時に書かざるを得ないこともあるのだろうけれど、私が見てきた限りでは確かに部屋で誰かが話したり作業をしていたりする方が圧倒的に筆が早い。
 私はううんと頭を捻らせた。何か良い、仕事の邪魔にならないような話題はあっただろうか。
「……最近、お気に入りの焼鳥屋がありまして」
「なるほど、なるほど」
 大船先生はくるりと椅子を回転させ机に向き直った。彼は原稿用紙にボールペンで原稿をしたためる。パソコンを持ってはいるが、画面上では文章がまとまらないというのが彼の口癖だ。そこもデジタル化してくれれば、私がここまで原稿を受け取りに来る手間も省けるのに。
 かりかりと右手を動かしながら、背中を丸めた大船先生は私の話の続きを促すように左手を挙げた。
「その焼鳥屋にはタレがありません。塩味オンリーです。大将のこだわりだそうで。でもおいしいんですよ、塩だけでも」
「肝も塩なの? 僕は肝はタレでいただきたい方なんだけど」
 手を休ませることなく大船先生は話に割り込む。
「たぶん塩です。私はそもそもレバーが苦手なので頼んだことはないんですけど」
「それで、あなたはひとりで静かに飲んでるんだ」
 背を向けたままの大船先生に向かって頷きかけたところで、私ははたと気が付いて開きかけた口を閉じた。確かに店へ向かう時はひとりだし、支払いも自分の分しかしない。けれど私はあの店でひとりで飲んだことがあっただろうか。
「どうしてひとりだと思ったんですか?」
 私が逆に質問で返してみせると、大船先生はううん、と唸って首を左右交互に傾けた。
「なんとなく。単に、僕がカウンターで隣になった人と仲良くなるタイプではないからかもしれない」
 確かに、大船先生は人付き合いに慎重な方だ。しかし「やま」での私はひとりではない。あの店には無口だが愛想は悪くない大将と、やたらと元気な相撲と将棋好きのおじさんと、そしてコバトさんがいる。
「人を追っていて知ったお店です。そのお店に行けば、その人がいるのであまりひとりで飲むことはありません」
「おとこ?」
 こちらに背を向けたままの大船先生が少し笑ったのがわかった。小馬鹿にしたような笑い方だが、彼は悪意がなくともそうした笑い方をするのを私は知っている。
「男の人ではあります。取材対象です」
「載るの、その人。ルオーノに」
「…………わかりませんね」
 私は正直に答えた。すると大船先生は椅子ごとくるりとこちらを向いた。にやにや、やはり笑っている。
「珍しいじゃないの。あなたが口説き落とせない相手がいるとは」
「私だって、断られることありますよ」
「それは始めの頃でしょう。最近じゃあすっぽんみたいに食らいついて。僕だって」
 そこまで言うと、大船先生はまた机に向き直った。私が大船先生の顔ではなく原稿用紙の方ばかり見つめていたのに気付いたのだ(もちろんわざとだ)。
「『僕だって』、なんです?」
「あなたがしつっこいから引き受けたんだ。本当は、フィクションしか書きたくないんだけれど」
 大船先生はそう言ってまた笑うように息を漏らした。これは私も何度か聞いたことだ。あまりにもしつこいから、と。けれど彼もこの仕事を一応は楽しんでくれてはいるようなので、私はあまり気にしていない。
「今回はさすがに、相手が頑なすぎてこっちが疲れました」
 頑な、というにはあまりにも柔らかすぎるコバトさんの笑い皺を思い出しながら私は言った。
「頑なな相手を追い回してるんだね。彼もストレスが溜まるだろうに」
「……とも、言い切れません」
「ほう」
 大船先生がまた振り向きかけたので、私は彼の手元を睨んだ。
「話しますから、書いてください」
「はい、はい」
 大船先生は肩をすくめ、また私に背を向ける。
「彼は取材を拒みます。けど、たぶん、私のことを拒絶はしていない」
 私は自分で言葉にすることで、コバトさんの意思を確信する。そうだ、あの人は、コバトさんは、私のことが嫌いではないのだ。でなければ、私の家に二度も来ない。私の部屋で眠ったりしない。
「その心は?」
「うちに泊まっていったことがあります」
「ほう、ほう、ほう!」
 大船先生が振り向きたくてうずうずしているのがわかった。しかし私は振り向くのを許さない。その原稿を書き終わるまでは。
「でもそれだけです。泊まっただけ」
「いや、それはまた。面白い」
 それだけ言うと大船先生は左手を挙げた。もういい、という合図だ。私の話は大船先生のやる気のエンジンをかけるだけで、ラストスパートを彼はひとりで走り抜ける。
 ひ弱に見える大船吉三朗も、この時ばかりは雄々しく見えるのだ。

 出来上がった原稿の内容は「先日散歩をしていて見かけた面白いもの」というもので、焼鳥のこともコバトさんのことも一切書かれていなかった。私の言葉を話半分に聞いていたわけではないのにまったく関係のない原稿を仕上げてしまう。大船先生は、コバトさんとは少しタイプは違うがやはり不思議な人だ。文章にしろ織物にしろ、何かを造るという人たちはやはり凡人には知り得ない世界を見ているのかもしれない。
 受け取った原稿を持って一度社に戻り、帰途につく電車の中でやけに浴衣姿の若者が多いのが目についた。ピンクや黄色や青の鮮やかな花柄、たまにきりりと黒い浴衣も見える。
(そうか、花火か)
 私の住むアパートの最寄駅からさらに一駅ほど行った先で毎年行われている花火大会。自分には関係のない催しなものだから、細かな日程など気にもしていなかった。
 私は一緒に花火を観に行こう、だなんて言い合える友人が近場にいない。浴衣なんてもう数年袖を通していないし、そもそも実家にまだあるかどうかも怪しい。
 色とりどりの浴衣を横目に電車を降りれば、夕方なのにいつもよりもわずかに活気付いた私の町。下駄をかたことと鳴らして女の子たちが駅へ吸い込まれていく。歩け歩け、たった一駅よ。胸の中で若者をたしなめながら三十路を過ぎた私は自分の巣へ帰る。彼女たちとは反対方向だ。
 別に自分が若くはないとは思わない。しかし、あの鮮やかな浴衣を着るほどの元気がもうないのも確かだ。せめてとぼとぼと寂しく歩いているように見えないよう、私は少し胸を張って歩いた。なんてったって今日は、ひとつ仕事を終えてきたのだから。
 きりりと歩く私の進行方向から、派手なアロハシャツを着た小柄な男が歩いてきた。遠目でもわかる。コバトさんだ。電車の中で見た浴衣のように、目の覚めるような黄色。
「編集さん、こんばんは」
 まだお互いの顔がわかるような明るさの中、コバトさんはそう言って笑った。小さなかばんとコンビニの袋を右手に提げて歩いてくるコバトさんは、どうやらご機嫌なようだ。
「こんばんは、でいいんでしょうか」
「午後5時を過ぎたらこんばんは、と言うことにしています、ぼくは」
「そうですか。ではこんばんは」
 会釈しながら、私はちらりとコバトさんの右手を盗み見た。黒く薄っぺらい布でできたかばんの中はよくわからないけれど、コンビニの袋の中には缶ビールが2本入っているのが見えた。
「お仕事だったんですか、今日」
 コバトさんは私がスーツを着ているのを見て言った。
「はい。休日を返上して仕事してきました。今帰ってきたところです」
 私は答える。そうですかと微笑むコバトさんが向かっている方向は、彼の家ではない。「コバトさんはどちらへ?」
「花火を観に行きます」
 言って、コバトさんはかさかさと音をたてながらコンビニ袋を掲げた。
「ビール持って?」
「はい。発泡酒でも第3のビールでもないんです。贅沢でしょう」
「……焼酎じゃないんですね」
 コバトさんがいつも「やま」では焼酎ばかり飲んでいるのを知っていたので訊くと、コバトさんはああ、と声を漏らしながら笑った。
「レジャーにはビールです」
 花火を見ることはコバトさんにとっては「レジャー」のようだ。別に焼酎でもいいと私は思うのだけれど、きっとそれがコバトさんなりのルールなのだろう。
「これから行っても、混んでるんじゃないですか?」
 私が訊くとコバトさんは得意げに、しかし嫌味のない笑い方をした。
「編集さんには教えます。内緒ですよ。実は」
 コバトさんは勿体つけてそう言いながら、ゆっくりと右手に下げたかばんを私に見せつけるように持ち上げた。「この中にはレジャーシートが入ってるんです」
「……はあ」
 レジャーに向かうコバトさんがレジャーシートを持っている。何も不思議なことはない。
「花火会場はごった返すんだからそんなもの敷く場所なんてない、と思いましたね?」
 今日のコバトさんはいつも以上にご機嫌だ。私はそんなことを1ミリも考えてはいなかったけれど、コバトさんが楽しそうなのでうなずいておいた。
「で、どうしてしく場所もないのにレジャーシートを?」
「ぼくはこれから、北へ向かいます」
 コバトさんは言った。はて、と私はそこでやっと疑問を抱く。花火大会の会場は、ここから南へ一駅だ。
「会場はあっちですよ」
 私は南を指しながら言った。
「そうなんです」
 コバトさんは静かにうなずいた。「でもぼくはいい場所を知ってるんです。ここから北へ一駅ぶん行くか行かないかのところに、いい土手があります」
「そこからはきれいに花火が見えるんですね」
 訊くと、コバトさんはいいえ、と首を振った。
「きれいに見える、というわけではないから人が少ないんです。邪魔な電柱がいくつかありますから」
「…………なるほど」
 コバトさんは人混みの花火会場と障害物のある土手を天秤にかけ、他人とぶつかる煩わしさを避けて土手を選ぶ人なのだ。
「光が広がるのと、遅れてくる音だけでも充分風情を感じられます」
 そう言ってへらへらと笑うコバトさんはもうすでに少し飲んできたのかもしれない。この饒舌さは酔っている時のそれだ。
「いい楽しみ方を見つけましたね、コバトさん」
「そうでしょう」
 自分が楽しんでいることを他人からもそう認められるのは、嬉しいことだ。他人の裁量で「これは楽しい」「これはそうではない」と型にはめられることの虚しさをきっとコバトさんは知っている。
 艶やかな浴衣を着て下駄を鳴らして友人や恋人と待ち合わせをすることだけが、花火の楽しみ方ではない。
「コバトさん、知ってますか?」
「何を?」
「私の部屋のベランダ、南向きなんですよ」
 私も私の楽しみ方を知っている。

#小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?