ひまわり泥棒コバト 16

 俺は店の二階に住んでいるので、散歩や買い物以外で外に出ることがあまりない。日常のものは徒歩や自転車で間に合う距離で事足りてしまい、電車に乗ることもそう多くはない。が、電車に乗ること自体は好きだ。座れた時に限るけれど。帰宅ラッシュを過ぎた平日の夜は、悠々と座っていられる。適度に酔っ払って薄っすら目を伏せて揺られていると、とても気持ちがいい。
 がたんたんがたん、がたんたんがたん。規則的に響くリズムも耳に心地よく、そこに俺は適当な言葉を乗せる。がたんたんがたん、直木賞受賞。がたんたんがたん、価格ドットコム。がたんたんがたん、生とレバー2本。
 今日は昔の友達と会っていた。佐伯といって、中学生の頃の同級生だ。先日珍しく少し遠くへ買い物に出かけた時に偶然再会した。会うのは10数年ぶりだったが、実は同じ路線でふた駅ほどしか離れていないところにお互い住んでいることがわかり、じゃあ今度飲もう、ということになった。その「今度」が今日だ。
 俺の休みが月曜と月一の火曜しかないと知ると、佐伯はそれに合わせてくれた。本当はうちの店に来てくれてもよかったのだけれど、それだとゆっくり話せないだろうから、という配慮だ。佐伯は昔から気の利く男だった。

 俺は佐伯に、ハメハメハの話ができなかった。あのハメハメハが今は俺の店の常連なんだぜ、と。ずっと誰かと共有したいと思っていたのに。
 ハメハメハ、と言えばきっと佐伯はわかってくれたはずだ。しかしその後に続くであろう話題を俺は口に出せなさそうな気がしたので、やめた。
「ハメハメハ、肉食わないのに俺の店にしょっちゅう入り浸ってるんだ」
「ハメハメハ、雑誌の記者に追われてるんだ」
「ハメハメハ、今はコバトさんっていうんだ」
 俺はそれらを話したくなかったのだと電車に揺られた今やっと気付く。コバトさんがハメハメハをやめ(そもそもこちらが勝手にそう呼んでいただけだ)、コバトさんであろうとすることに俺は協力している。本人のいないところでコバトさんをハメハメハに戻してはいけない、と俺の中でブレーキがかかったのだと思う。
 コバトさんが中学生の頃のことを忘れたがっているかどうかはわからない。しかし肩の傷、それよりも以前のことにはこちらから触れてはいけない気がするのだ。例えそれがハメハメハを知る佐伯であっても。

 ハメハメハの話をしないかわりに、俺は先生の話をした。子供が読んでいるので滑川スネ子を知っている、と佐伯は驚いていた。俺は少しいい気になった。
 佐伯には、漫画を読んで喜ぶ歳の子供がいる。結婚したことは風の噂で聞いてはいたけれど、もう子供がそんなに大きくなっていたとは。写真も見せてもらった。佐伯によく似た男の子だった。
 俺の結婚のことについても訊かれたけれど、俺はまだまだ、と笑ってごまかした。そもそも相手がいない。前に付き合っていた女は、俺が店を持ちたいと言うと将来に不安を感じたのか離れていってしまった。彼女の選択は間違っていないかもしれない。俺の店は流行っていない。一人で生活するのが精一杯だ。今は。
 客商売なんだから出会いもあるだろう、と佐伯は言ったが、そうそう甘いものでもない。服に煙たい匂いのつく焼鳥屋は、あまり女性に好かれやすくはないようなのだ。常連も近所のおじさんおじいさんが多く、女性客は地域の祭や花火大会の終わり頃に一見さんが少し増える程度。出会いなんてものとは程遠い。
 よく来る若い女性客といえば先生か、最近は編集さんも来てくれるようになったけれど(どちらも見る限り俺とそう歳は変わらないはずだ)、2人ともコバトさん目当てだ。それに俺は、先生の本当の名前を知らない。佐伯の言うような「出会い」は、まあ、理想論だ、理想論。

 気が付けばふた駅進んでいた。俺は慌てて電車を飛び降り、切符を探す。滅多に電車に乗らないものだから、ICカードなんてものは持っていないのだ。
「あれ」
 切符、どこにやったかな。ポケット? 財布?
 改札の前でぱたぱたと体を叩いたりポケットを裏返している俺を、他の乗客たちが次々と追い越していく。駅員は苦笑いで俺が切符を見つけるのを待ってくれている。
「どこから乗りました?」
「ふたつ、先の。ちょっと待って、切符は買ったんですよ確かに」
 冬でなくてよかった、と呑気なことを考えてしまった。冬ならばアウターのポケットまで捜索範囲に入ってしまう。
 結局、切符は二度見たはずの財布の小銭入れに入っていた。そうだ、落としてはいけないからとファスナー付きの小銭入れにしまい込んだのだったっけ。
 苦笑いの俺と、苦笑いの駅員。なんとか自動改札を抜けた俺は、そこで更に苦笑いの知り合いを見つけてしまった。
「お、疲れ様です……」
「めっちゃ探してましたね、切符」
 先生だった。先生の隣には身長が俺くらいはありそうな若い女の子と、逆に先生と同じくらいの目線の男がこれまた見事な苦笑いを見せて立っていた。この人がサノ氏だろうか、思っていたより若くて男前だ。
「電車、久しぶりだったもんで……」
「まだいるんですね、切符買う人」
「なかなか乗らないので……あっても無駄かなって」
「わかります、わかります」
 俺に話を合わせてくれているのか、先生はウンウンと頷いている。恥ずかしくて、俺は壁の掲示板に貼られた広告に気を取られたふりをして目を背けた。週末の花火大会のポスター。「協賛の皆様」に地元の企業がこぞって名を連ねている。
「じゃ、滑川さん俺ら行くけど」
 俺は背中でその声を聞いていた。サノ氏と思しき男性だろう。
「あ、はい。気を付けて。ハマちゃんも」
 先生の声。どうやら先生はこれから出かけるわけではないらしい。
「スネ子さんもここからまたひとりで帰るねんから、気を付けて」
 あの背の高い女の子が「ハマちゃん」か。言葉に訛りがある。
「大丈夫。じゃ、お疲れ」
「お疲れ様でした」
「ハマちゃん電車来ちゃうよ」
「えっ、早」
 ふたりが改札を抜けて小走りになって行く音が遠ざかる。先生はまだいるだろうか。先に帰ってくれていたら恥ずかしさも少しはましになるのだけれど。
「大将、帰んないんですか」
 先生は帰ってくれなかった。俺がさっさと先に帰ればよかったのだと気付いたけれどもう遅い。どうやら、アルコールで判断力が鈍っているようだ。
「……帰ります」
 とぼとぼと俺は歩き出した。成り行き上、先生と一緒になる。カウンター越しでない位置で知る先生の正確な身長は、確かにあの頃のハメハメハと同じくらいだ。
「今日ね、サノさんとハマちゃんとちょっと話し合いして、終わって大将のとこ行こうとしたんです。そしたら休みで。忘れてた、今日月曜日なんですよね」
 歩きながら先生が言った。
「すみません」
「いや、謝らんでも。こっちが忘れてただけなんで」
「はあ」
 うまく会話が続かない。ここはいつものカウンターではない。先生が生とレバー2本を注文しない会話のパターンも初めてだった。
「大将、結構酔ってます?」
「いや、それほどでも」
「切符なくすほど」
「……でも無事、見つかったんで」
 俺が言うと先生は小さく声を出して笑った。大将も飲むんですね、と。確かに普段は人が飲んでいるのをカウンターの内側から眺めているばかりで、仕事が終われば風呂上がりに缶ビールを飲んで寝る。それぐらいだ。何しろ、外で飲むこと自体久しぶりだった。
「コバトさんもだけど、大将も結構謎の人なんですよね、わたしにとって」
「そうですか?」
 先生の言葉が意外で、俺は首を傾げた。コバトさんに比べれば俺は平凡な男なはずだ。
「口数少ないからあんまり客に興味ないのかなと思いきや、案外聞き上手だったりコバトさんのお泊りに突然口出したり」
「興味なくはないですよ。……喋るの苦手なだけで」
「まあ、それがいいところでもあると思いますよ。ぐいぐい来る店員いるよりは」
 酔っていない(であろう)先生は、気を遣うような口ぶりでものを言う。いつものカウンター越しで見る先生の方が本性に近いのではないかと俺には思えて、なんだか少し腹がそわそわした。

 先に俺の店の前まで来てしまった。先生の家はこの先にあるのだろうか、それとも先生をここまで付き合わせてしまっただろうか。
「じゃ、またお店で。明日……は、お休みの火曜でしたっけ」
「……休みです」
「了解です。また来ますね」
「先生」
 そのまま歩いて行こうとする先生の背中に、俺は声をかけた。女の人に直接触れて呼び止める度胸は、今のところない。
「はい」
 先生は振り向いてくれた。大きなレンズのメガネの向こう、一重まぶたがぱちぱちと瞬く。
「大丈夫、ですか」
 先生はこれからひとりで帰らなければいけない、とさっき駅で「ハマちゃん」が言っていた。ここまでは俺と一緒だったけれど、この先はやはりひとりだ。今日俺は情けないところばかり見られていて(普段もそう頼もしい焼鳥屋というわけでもないけれど)、このままでは先生に借りを作ってしまう気がしてそれは少し悔しい。
 そうしたちっぽけなプライドにほんの少しの優しさを混ぜたつもりだったのだが。
「何が?」
 俺の語彙力では、この人にはそれが伝わらなかった。
「先生、ひとりですし」
「ああ、そんなこと」
 先生は俺のプライドと優しさを一笑に付した。「今さらでしょうよ。いつもわたし、ひとりでここ来てひとりで帰ってんすよ」
「あ……」
 そうだった。先生はいつも店の中では誰かと話しているけれど、来る道と帰る道はいつもひとりだ。
「まあ、ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。それに送ってもらうにしても、大将、わたしの家知らんでしょう」
 そして俺は自分の店のお客のことを、何も知らないのだった。名前も、歳も、どこに住んでいるかも。俺から見れば、先生の方がよっぽど謎の人、だ。
「…………お気をつけて」
「ありがとうございます」
 先生はまた歩き出す。俺は今度は呼び止めなかった。ただ、見えなくなるまで先生の背中を見ていた。遠くへ離れると、意外と小さいんだな、先生。

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