ひまわり泥棒コバト 13

 あのふたり、どういうことになってるんだろう。
 コバトさんは編集さんの家へ行くようになった。泊まったのはあの一回だけなのか、それともその後も何度かお泊まりしているのか。まあ、俺が考え込むようなことでもないのだけれど。
 コバトさんは雑誌の取材を頑なに断り続けているけれど、編集さんのことが嫌いなわけではないらしい。湯葉を分けてやったり、自分から家へ行っていいかと訊いたり。
 コバトさんも大人だ、恋人がいたっていい。けれどどうしても俺は、先生のことも気になってしまう。
 先生が湯葉を分けてやったからコバトさんはあれを気に入って頻繁に食べていくようになったのだ。先生と話をするのも、コバトさんはきっと嫌いではない。

 年が明ける前のことだ。コバトさんは一度だけこの店でべろべろに酔っ払った。とは言っても穏やかな口調は変わらず、ただ饒舌になるというだったのだけれど、コバトさんは珍しく自分のことや昔のことを話し始めた。その頃にはもう店にはコバトさんと俺しかおらず、酔ったコバトさんはいつになくおしゃべりだったのだ。
 コバトさんは俺の名前を知らなかったけれど、顔は憶えていた、と言った。
「大将、背が高くて目立ったでしょう。それに、すれ違うときいつも僕の方をじっと見てた」
 そう言って肩を揺らして笑ったコバトさんのことを俺は鮮明に憶えている。それはコバトさんが中学生の頃の俺を知っていたのが嬉しかったから、という理由ではなく、その後に話した内容がとても強烈で、それとセットで記憶しているからだ。
 僕ねえ、刺されたことがあるんです。そう言ってコバトさんは笑った。
「肩をね、包丁で。僕の先生だった人に。機織りの先生です。女の人で。僕はその人がとても」
 肩をさすりながらそこまで言うと、コバトさんはまた笑った。何を話してるんでしょう、僕。
 その日は早めに店を閉めて、コバトさんを家まで連れて行った。門扉の前まで行くとコバトさんは頭を下げ、俺はコバトさんがひとりで玄関のドアを開けて入って行くのを見てから帰った。だから俺はコバトさんの家は知っていたけれど中に入ったのはこの前朝ごはんを頂いた時が初めてだったのだ。
 あれからコバトさんも俺も、お互いの昔の話をしていない。コバトさんが口を滑らせたのはあの一度だけだ。

 そして今日も、赤いアロハシャツを着てコバトさんは俺の店で焼酎を舐めている。
 お客がコバトさんだけになると、俺の店はとても静かになる。コバトさんは話したいことがあれば勝手に話しかけてくるけれど、かといって話題がなければ無理に捻り出して話そうとするわけでもない。俺はそれが苦ではないし、話すことが苦手な分助かってもいる。あの冬の日のようにべろべろになることがない限りコバトさんが自分の話をすることはないし、そうならないようにコバトさんはゆっくりとお酒を飲むのだ。
 けれど俺は本当は、コバトさんに聞きたいことが山ほどある。編集さんのこと、先生のこと。
 コバトさんは肉は食べないけれど卵は食べる。今日はうずらの卵を注文した。俺は慎重に串打ちした中がとろとろのうずらのゆで卵を慎重に焼き上げ、塩をふってコバトさんに手渡す。重みで白身が破けてしまわない絶妙さ。
「これ、いつも思うけど。すごいですよね。串が打てる硬さまで茹でてあるのに中はとろとろで」
 コバトさんは嬉しそうにうずらの卵を頬張った。この人はとろとろのものが好きなのかもしれない。
「……あの人、コバトさんのこと好きですよね」
 少し前の俺なら、なぜそれを訊いてしまったのだろう、と自問自答するところだ。けれど俺は知りたかった。口下手でも、好奇心は人並みにあるのだから。
「あ、珍しく自分から喋りますね、大将」
 コバトさんは笑った。口の端に卵の黄身が付いている。
「たぶん好きですよ」
 あの人、というのが誰のことを指しているのか俺は言えなかった。言わなかった。それは先生でも編集さんでも当てはまるし、俺はコバトさんがどちらの意味で取るのかを見てみたかった。
 しかしコバトさんの答えは、こうだ。
「その話、たぶん長続きしないです。僕はこの店好きなので、別の話をしましょう」
 そのなんの嫌味もない笑顔が切なかった。先生とも編集さんとも食べ物を分け合うコバトさんは、そうやって俺を煙に巻く。

 それから30分ほどして、先生がやってきた。眼鏡はやっぱりずれている。
「生と、レバー2本」
 いつもどおりの注文をして、先生はいつもどおりコバトさんの隣に座る。
「お疲れですね、先生」
 コバトさんは自分の顎で右肩を擦りながらいつもの言葉を先生にかけてやる。
「ここへ来るときはいつも疲れとりますわ」
 もうパターン化しているやりとり。この部分だけコピーペーストしているみたいだ。
 先生も、コバトさんと話すことに慣れている。今日の先生は地雷を踏むことなく、波風も立てず、他愛もない話をした。
 俺はこの店のカウンターで先生が(やんわりとだけれど)ふられているのを何度か見ているし、もしかしたらコバトさんの家で機織りをしている時にもそういうことはあるのかもしれない。それでもこうしてまたここでコバトさんと焼鳥を食べてビールを飲む。先生は案外、打たれ強い。
 しかしこうして見ているとコバトさんは本当に楽しそうに先生の話を聞いていて、それを肴にお酒を飲むことがやはり、嫌いではないはずなのだ。それなのにどうして、コバトさんは先生に応えてやらないのだろう。
「コバトさん、今日もう湯葉食べちゃいました?」
 先生が訊くと、コバトさんはゆらゆらと首を振った。
「いえ、まだ。先生を待ってました」
 コバトさんは右肩を撫でながら言う。
「あらまあ。じゃあ、大将、生湯葉ひとつ」
 ほら。そういうことを言うから先生は希望を捨てきれない。先生だって悪い。直接好きだと言えばいいのに。言えば――言えば、コバトさんはどう答えるだろう。もっと明らかな拒絶を見せるか、それとも。
 俺は複雑な気持ちで湯葉をよそった。

 コバトさんが帰っても先生はまだ居座っている。今日は愚痴が止まらない。先生の話すことは主に担当編集者の悪口で、社会人としてよくないこともいくらか言ってしまっているけれど、俺はそれを指摘せずただ相槌に徹した。この人はだめなところが沢山あるけれど、溜め込んで壊れてしまうことが一番だめだ。俺が打つ相槌で彼女の気が済むならそれでいい。話を聞くことには慣れている。
「その人ね、本当にわたしの前では偉そうなんです。小さいくせに」
 サノという編集者について、先生は訥々と語る。
「小さい、って、背が? 器が?」
「……背、ですね」
 俺の質問に、少しだけ考えてから先生は答えた。だろうな、と俺は思う。器の小さい人間が、この人の仕事を失わせないために走り回ることはきっとない(それでも彼に対する悪口が止まらないのはただ先生が疲れているからだ、と思うことにする)。
「コバトさんぐらいですね、たぶん」
 わたしと目線が同じくらいだから、と先生は言いながら手を自分の目元の高さへ持ってきた。そうだったのか、と俺は思った。いつも先生はほとんど座っているし、俺のいるカウンターも床が少し高い作りになっているので俺は先生の正確な背の高さを知らない。なるほど、先生はコバトさんくらいの身長なんだな。
「コバトさんと言えば」
 言って、先生はちびりとビールを舐めて口の中を湿らせた。話し通しで口が渇いたらしい。「コバトさんって、コバト何っていうんでしょうね」
「コバトナニ?」
「コバト、って苗字でしょう、たぶん。下の名前、なんなんでしょうね。大将、知ってます?」
 俺は知っている。コバトさんの苗字が「コバト」でないことも。けれど今のコバトさんは「コバトさん」だ。
「さあ……」
 俺は先生に少し申し訳ない気持ちで、嘘をついた。
「大将も知らないか。コバトさんの家、表札がないんですよ。郵便屋さんどうしてるんだろう」
 もうサノ氏の話などどこかへ行ってしまっていた。俺たちの共通の話題は、やはりコバトさんなのだ。
 俺はコバトさんのことを知っている。年齢も、本名も、右肩の傷のことも。けれど彼が何を考えているかは、きっと誰にもわからない。



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