ひまわり泥棒コバト 7

 梅雨明けから少しずつ、夏へ向かっている。わたしは日々の光熱費に怯えて8月に入るまでは扇風機で過ごすと決めているが、湿気と熱は漫画家の大敵だ。湿気でインクはかびてしまうし、暑ければ汗をかきその汗は原稿用紙を濡らす。
 師匠のところでアシスタントをしていた頃は付けペンに黒インクで作品を仕上げていたが、いざ自分がデビューしてみると画材の管理が行き届かない。わたしは自他共に認めるずぼらな人間だ。梅雨時にかびていくインクやすぐ錆びてしまうペン先を救うことができなかった。
 付けペンをミリペンに持ち替えると、漫画の評価は驚くほど伸びた。先の細いペンはわたしの筆圧に耐えられなかったのだ。
 しかしそれも過去の話。わたしは今、そのミリペンを持ちつつも人気が低迷し続ける崖っぷち作家だ。
「暑い」
 誰もいない部屋で、わたしは呟いた。一人でいるのは苦ではないし、だからこそわたしは幼い頃から絵を描くことに没頭して来れたのだ。けれど今は、誰かにいてほしい。誰かと話さなければ脳が腐ってしまう。
 コバトさんのアトリエにはさすがに行けない。今日行けば3日連続になってしまう。要するにもうすでに2日、さぼっているのだ。
 わたしは椅子に座ったまま大きく体を反らせた。一応、ネームは出来上がっている。次は下書きに取りかかればいい。それはわかっているのに。
「なァんで描けないんだろうねェ」
 わたしは目を閉じる。わたしの絵柄で、コバトさんに似たキャラクターがまぶたの裏に描かれていく。背が低く、いつもサンダルを履いていて、しゅんと下がった眉にすっきりとつり上がった目。口の横と目尻には笑い皺。
「こりゃァ、少年漫画向けのキャラじゃない」
 わたしが目を開けると、まぶたの裏のコバトさんは消える。わたしが描かなければいけないのは、傍若無人な主人公が異世界でガンガン暴れまわる、特殊能力ギンギンのバトル漫画だ。
 その前に描いていたのはほのぼの四コマ。今の作品の連載が決まった頃の自分に訊きたい。お前一体、どんな心境の変化があったんだよ。
 滑川スネ子の意外な才能――あの頃はそんなキャッチコピーをつけてもらっていたっけ。
「なァんで描けないんだろうねェ……」
 その理由は自分でもわかっている。わたしはコバトさんが描きたいのだ。
 隠れてひっそりと暮らし肉を口にせず、静謐な色気と穏やかな物腰の、ミステリアスな中年男。女性誌なら受けるだろう。
 けれどコバトさんを描くのにわたしの使うミリペンは向いていない。繊細なラインのコバトさんを描くならそう、丸ペン。しかしわたしはいくつものペン先を葬った筆圧を持つ作家だ。丸ペンは特に相性が悪かった。
「……やるか」
 わたしは腹をくくって起き上がった。ぎっ、と椅子の背が鳴く。線の強弱が付けられないミリペンを握り、わたしは原稿に向かった。
 いや、その前に下書きをしなければ。 

 16ページすべての下書きを終えたところで、今日は仕事を終えることにした。明日はアシスタントのハマちゃんが来てくれる。扉絵の下書きは、まあ、その時に。
 わたしは家を飛び出した。今日はよく頑張ったじゃないか、と脳内の佐野さんが褒めてくれる。本物の佐野さんはきっと扉絵までやってから飲みに行け、と叱ってくるのだろうけれど、脳内の優しい佐野さんはわたしのすることをだいたい許してくれるのだ。
 向かう先はいつもの焼鳥屋。今日はコバトさんのアトリエには行かなかったから、ちゃんと仕事をしたアピールもできる。
 コバトさんはいつもの席にいて、静かに焼酎を飲んでいた。今日は他の客がいないから、大将も静かだ。
 実はこの大将は口下手で自分から話をすることはほとんどない。誰かから話しかけられた時にだけ返事をする。
「やあ先生、お疲れですね」
 コバトさんはいつも右肩が凝っている。
「ここへ来るときはいつも疲れとりますわ。大将、生とレバー2本」
 わたしは答える。いつものやりとり。
 この店を知るまでは、レバーはタレの方が好きだった。けれどこの店のレバーはとても絶妙な焼き具合で、中がとろりとしていて塩味でも十分に濃厚な旨味を堪能できる。塩味だけというこだわりの理由はよくわからないけれど、この大将は若いわりに腕はいいのだ。
「今日はうちに来ませんでしたね」
 コバトさんが言うのでわたしは胸を張った。
「今日はやりましたよ。やってやりましたよ。明日仕上げです」
「頑張りましたね」
「頑張りました」
 コバトさんはわたしが仕事をさぼるのを手伝ってくれるし、仕事をすればこうして一緒に喜んでくれる。良い友人だ。
「大将、ぼんじりも追加で」
 今日は機嫌がいい。良い友人と腕のいい焼鳥屋、しゃりしゃりに冷えたビール。 

 コバトさんはあまり自分のことを語らない。語りたがらない、というわけでもない。聞けば答えは返ってくる。こちらの望む返答ではないけれど。
 例えば。
「お付き合いしてる方とかいないんですか」
 こう訊くと、コバトさんは肩を揺らして笑う。
「いるように見えます?」
 見えなかった。わたしは黙ってぼんじりを噛む。塩辛い。大将が塩加減を間違えたのだろうか。珍しいこともあるものだ。
「大将、生湯葉」
「あ、僕も」
「半分あげます」
「いつもすみません」
「いえいえ」
 これもいつもの会話だ。わたしはビールジョッキと焼酎の入ったコップを並べて、コバトさんより酒が進まないように気をつける。なんとなく。きっとこれはかわい子ぶっているのだ。
「好きな人とかいないんですか」
 機嫌の良さとアルコールに任せて、わたしは一歩踏み込んだ質問をしてみた。
「先生、ぼくが恋愛してるの想像できます?」
 コバトさんは顔色ひとつ変えず、凝った右肩をとんとんと叩きながら言った。
「想像、できないです」
「ですよね」
 コバトさんは笑う。またフラれた。コバトさんのことを、わたしは何も知らない。


#小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?