【小説】40才のロックンロール #6
" こんな儚い世界の中に、信じた歌がある。こんな儚い世界の中に、信じた人がいる。 "
朝の9時7分だと気付いてからの僕は、昨夜のこと、ましてや昔のことなど微塵も思い出さない、猛獣と化していた。そう、獲物を追いかけるチーターのように。獲物とは、無論、タイムカードの「9時30分」の刻印である。
「おはようございます。すみません、遅れました。」
獲物は、逃がしてしまった。9時38分だった。
「おう、おはよう。めずらしいな。遅刻なんて。」
社長の鎌田さんは、いつも物静かで余裕がある。この人は、僕の恩人だ。
実家を飛び出し、再び東京に戻った僕は、職を探し始めた。来る日も来る日も、転職サイトと向き合った。しかし、いざ向き合ってみると、何をしたらいいのか分からない。今の自分にどんな仕事ができるのか、まったくイメージができなかった。再就職したところで、また同じことを繰り返してしまうのではないか。また、職場に迷惑をかけてしまうのではないか。
俺は、やっぱり何をやってもだめなんだ。一件も履歴書を送ることもなく、途方に暮れ、失望した。もう、消えてなくなりたかった。そう思ってしまう自分のことも、好きになれなかった。
お金もなかった。収入ゼロなのだから、当然だ。家賃と生活費を、親に頼っていた。
両親の経営する酒屋は、決して儲かっているわけではない。常連さんしか来ない、小さな店だ。にも関わらず、僕を私立の大学に入れてくれた。会社員ならまもなく定年を迎える年齢の両親が、僕のために、汗水垂らして働いている。
そんな両親のことを思ったら、とりあえず、今日の夜は生きようと決心できた。明日の朝のことなんてどうでもいい。何か食べないといけない。なぜか、無性にそんなことを思い、近所のスーパーに行った。
でも、何を食べたらいいか分からなかった。俺は今、何を食べたいのか、欲が湧いてこない。何を作ったらいいのか、分からない。無数の食材を前に、体が固まってしまった。何も考えられない。やっぱり、消えてなくなる方がいいのかもしれない。
そのとき、右斜め後ろから、視線を感じた。その視線は、ゆっくり近付いてきた。
「粟井…粟井か?」
「え…鎌田さん。お久しぶりです。」
学生時代にアルバイトをしていたアメリカンドリームは、卒業と同時に辞めた。卒業しても同じアパートに住んでいたので、近所ではあったのだが、鎌田さんにも谷岡さんにも会ったことがなかった。
「久しぶり。…お前、飯食ったか?」
「いや、まだです。」
いま思えば、僕の姿を見た瞬間に、鎌田さんはいろいろ察知してくれたのだと思う。僕はボサボサの頭に、色褪せた黒の上下スウェット姿で、カラの買い物かごを持ち、精肉コーナーで立ち尽くしていた。
「じゃあ、うちで食ってけ。今日はカレーだ。お前好きだろ、どうせ。」
「…いや、そんなわけには。こんな格好ですし。」
「いいから来い。好きだろ、どうせ。カレーライス。」
確かに、僕はどうせ、カレーライスが好きだ。
鎌田さんは、僕が持っていたカラの買い物かごを奪い取り、僕の肩を優しくたたいた。僕は、黙って鎌田さんのあとをついていった。
「ただいまー。スーパーでデカい猫拾っちゃったよ。カレーライスが好きな猫。」
「え?…あら、粟井くん!久しぶりじゃない!元気してた?」
鎌田さんの奥さんと会うのも、数年振りだ。この人は、いつも笑顔だ。
「せまくてごめんな。そこ座って。ビールでいいか?」
「いや、僕は…。」
そんな僕の回答は無視された。僕のために用意された空っぽのグラスに、美味しそうなビールが注がれるのを、ずっと見ていた。
「おい、持てよ。グラスを。」
「あ、すみません。」
空っぽだったグラスが金色になっていくのが、とても美しくて、見惚れてしまった。
「乾杯。」
「いただきます。」
ビールはキンキンに冷えていたが、何か温かいものが、僕の食道から胃に流れていくのを感じていた。
「粟井くん、お仕事頑張ってる?建築だよね?」
「あ…いや…いまは…。」
答えに困っていると、鎌田さんが話を変えた。
「谷岡もまだ働いてるぞ。相変わらずだけどな。」
谷岡さん。なつかしい名前を聞いて、僕の胃は、さらに温まってきた。
「あいつな、子供生まれてな。あいつが親になるなんて、って思ったけどな。毎日子供の写真見せられてさ。かわいくて困っちゃうよ。」
鎌田さんは優しく笑った。そうだ、この頃だった。谷岡さんに第一子が誕生したのは。
「はい、どうぞ。福神漬け?それとも、らっきょ?」
奥さんが僕の前に、美味しいに決まっているカレーライスを、優しく置いてくれた。
「あ、ありがとうございます。」
ずっと見ていたかった。僕のために用意された、カレーライス。その上に昇る、湯気。その向こうに見える、鎌田さんと奥さん。
気がついたら、僕は泣いていた。福神漬けでも、らっきょでも、もうなんでもいい。僕のために用意されたカレーライスが、ここにある。
「…粟井くん?…どうした?」
僕に問いかけながら、奥さんが鎌田さんの方を見た。鎌田さんが小さく頷いた。
「粟井、冷めるぞ。カレーはな、アツアツで食うのがいいんだ。どうせお前も分かってんだろ。そんなこと。」
確かに、僕はどうせ、そんなこと分かっていた。冷めたカレーも好きだけど。
夢中でカレーライスを食べた。一言も発しなかった。食べれば食べるほど、涙が出てきて、途中でカレーと一緒に涙も食べていた。やっぱり、福神漬けもらっきょもいらなかった。
うまいとか、おいしいとか、そんな次元のものではなかった。
僕が食べ終わったのを見ると、鎌田さんは冷蔵庫から缶ビールを取り出し、僕にすすめた。
「なんかあったんだろ、粟井。もうバレてんぞ。」
僕は観念して、卒業してから今日までの経緯を話した。奥さんは、途中から泣きながら聞いてくれた。
「つらかったな。よく頑張ったな。」
鎌田さんは僕の話を一通り黙って聞いた後に、静かにそう言った。
その後は、カレーをおかわりし、ビールもおかわりし、鎌田さんと奥さんの夫婦漫才を生で観戦した。
「俺、そろそろ帰ります。」
「あら、もっとゆっくりしてっていいのよ。二人でいると何もしゃべんないんだから。」
「いや、ごちそうさまでした。めっちゃ美味しかったです。ありがとうございます。」
「じゃあ俺、外まで送るわ。」
「あ、大丈夫ですよ。」
「大丈夫じゃねぇ。」
結局、鎌田さんがマンションの外まで見送りに来てくれた。
その頃には、僕の中に「消えてなくなりたい」という感情は消えていた。それよりも、カレーとビールで幸せに膨れ上がった体を、早く休めたかった。その幸せを独り占めし、噛み締めたかった。
そう思っていると、鎌田さんが財布から1万円札を取り出し、僕に無言で渡した。突然のことにあたふたしていると、鎌田さんが言った。
「いいから。受け取れ。んで、この1万を増やせなかったら、うちで働け。楽だぞ、うちの仕事は。」
「いや…そんな…。」
「それから、毎日、田舎の父ちゃん母ちゃんには連絡しろ。」
「いや、別にそんな、だいじょ…」
「大丈夫じゃねぇ!」
鎌田さんから聞く、初めての大声だった。その瞬間、鎌田さん宅に飾られていた、家族写真らしきものを思い出した。僕と同じくらいの歳の青年が、鎌田さんと奥さんの間で笑っていた。
「親っつうのはな…いや、まぁいい。…親御さんに連絡するのがいやなら、俺に連絡して来い。その1万円を何に使ったか、連絡して来い。別に飯に使おうが、酒に使おうが、私利私欲のために使おうが、なんだっていい。ただ、連絡して来い。それでお前のことは判断しない。」
僕は結局、その1万円札を受け取った。でも、その1万円札は、使えなかった。いまでも家にある。
僕は次の日から、毎日両親と鎌田さんにLINEを送った。両親は、喜んでくれた。毎日、僕からの連絡を楽しみにしてくれた。鎌田さんからは、いつも陽気なスタンプが返信されてくるだけだった。
一週間が過ぎた頃、鎌田さんからスタンプ以外の返信が来た。
“ 明日うちに来い。大丈夫だ。心配すんな。もう大丈夫だ。うまくいく ”
僕はずっと、どこでどのように働けば、失敗しないかを考えていた。二度と失敗しないように、二度と迷惑をかけないように。もう誰にも迷惑をかけてはならない。
でも、そんな考え、どうでもよくなった。
僕はこの人のところで、働きたい。こういう人のそばに、ずっといたい。理屈ではない。僕の命は、この人のものでもある。だから、ここでくたばってはならない。ここで死んでしまうわけにはいかない。
そう思った。
次の日、昼過ぎにアメドリに行った。鎌田さんがいた。
「おう、来たか。ありがとな。」
あの日の鎌田さんの優しい笑顔を、いまでもたまに思い出す。
僕はこの日から、アメドリに復帰した。しばらくして、正社員として雇ってもらえるようになった。今日は遅刻してしまったけど。
谷岡さんが、僕よりもさらに遅刻して出社してきた。
「粟井わりぃ。遅れた。」
「大丈夫っす。今日は俺も遅れたんで。」
「なんだよ!お前!仲間じゃねぇかよ!」
いや、一緒にはしないでくれと思いながらも、なんだか嬉しかった。
今日も一日が始まった。ちゃんと、始まってくれた。
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