見出し画像

【セミナー参加】武邑塾2019「GDPR以後の欧州:EU製のインターネットと未来」 第4回 溶け出すプライバシー:離散するアイデンティティの行方

どんなセミナー?

武邑塾の事務局をしている同僚からお誘いいただき、参加しました。

デジタル社会におけるプライバシーとは何でしょうか……? 物理オブジェクトや精神領域にも帰属せず、漂流し、溶け出し始めたプライバシーは、離散性と集合性を繰り返すデータにほかなりません。これらのデータは、私たちの聖域であった従来のプライバシーやアイデンティティとどう関連しているのでしょうか? さらに近年、データ・プライバシーをめぐる消費者経済学の観点は、このデータ価値の正当な「値段」の開示とユーザーへの支払いを事業者に迫ります。私たちはこれらの問いを緊急に検証する必要があるでしょう。もはやデジタル世界にはプライバシーなど存在しないのでしょうか……?
第一部は武邑光裕塾長による「テセウスの船とデータ・プライバシー」と題した講演をお届けします。古代アテネの王テセウスは、船による戦いで勇名を馳せた伝説の人物です。テセウスの偉業と功績を称えるため、人々は彼の乗った「船」を彼の生命の代わりに何世紀ものあいだ保存しました。その過程で木造の船の部品は徐々に腐敗し、新たな部品へと交換されていきます。ここで、アイデンティティの形而上学を理解するための哲学的思考実験が提起されます。つまり、テセウスの象徴としての物理的オブジェクトであった船の部品がすべて置き換えられたとき、それは果たしてテセウスの元の船と言えるのか否か……いう問題です。
この命題を人間の心や身体に適用すると、さらに興味深い化学反応が起こります。シンギュラリティの信奉者は人間がテクノロジーの使用を通じて機能的不滅に近づき、そこで人間はテクノロジーと融合し、両者は区別できなくなると主張しますが、いま私たちが直面している新たな問いとは「私たちのデータ・プライバシーは私たち自身の一部なのか、それともテクノロジーと一体化したものなのか?」ということにほかなりません。本講義では「データは誰のものか?」という「武邑塾2019」の最初の命題への最新の観点を提示します。なお、今回ご参加の皆様には、武邑塾長が『時の法令』(朝陽会刊)にて執筆されている連載「ベルリン発!デジタルプライバシー考」の抜刷記事を配布します。
第二部は「プライバシー・バイ・デザイン」をテーマに、東京からメディア環境学者で『「盛り」の誕生 女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』(太田出版)の著者である久保友香氏、「シナスタジア(共感覚)」をライフワークに、感覚刺激によるアイデンティティ変容装置で世界初の試みを展開されているエクスペリエンス・デザイナー水口哲也氏をゲストにお迎えします。

何を期待した?

私自身は関西大学在学中から、武邑先生の著書や研究に関しては触れる機会が多く、また自身の研究内容とも近かったため、親近感をもっておりました。
今回は20年ぶりぐらいで過去の研究テーマと向き合ういい機会となりました。

何を学んだ?

プライバシーの成り立ち
プライバシーは、他者が介入できない消費者の自己決定権であり、人生の一部である。
活版印刷によりメディアができ、タブロイド紙が上流階級の生活を暴いたことから、プライバシーの概念は成立した。
欧州は、全人監視社会の恐怖を歴史上の痛みとして自覚している。プライバシー侵害に対する拒絶反応はそこから起こる。

プライバシーのパラドクス

かつて、監視とは悪の象徴だった。今、多くの人々が監視、つまりプライバシーを差し出すことを通して多くの利便性を実感している。それが、プライバシーを望みながら個人データを差し出すというパラドックス。
消費者は自身のプライバシーに関して、合理的な費用便益取引を行うが、プライバシーの本当の価値を理解していないとも受け取れる行動をすることがある。

インターネットにプライバシーがあるかどうか?
プライバシーの概念は物理的に空間とオンラインとでは異なる解釈になり、
ネットワーク化されたプライバシー、つながるデータのどこまでがプライバシーか?
我々は、プライバシーを定義する「空間」の概念と「自己決定権」を失っている。
急速なデジタル化によってもたらされている新たな可能性や脆弱性をどう乗り切るかについて、人々はまだその方法を学んでいない。

プライバシーはもはや「社会的規範」ではない。
人々は長寿やより良い健康の見返りにプライバシーを断念する時代に入っている。
これまでプライバシーは「保護されるべき」前提で理解していたが、実際のところ、私達がコントロールできる状態にはない。
我々のデジタルツインが我々自身から学習した結果をもとに我々から先回りして判断する時代に、それが起こす行動のプライバシーとはなんなのか?
プライバシーは幻想に過ぎない。

透明性が不正から守る
CIAやFBIでさえ効果的に秘密を保護することができなくなった
ムーアの法則に則ると、秘密を守るためのコストは、計算コストの減少とは逆に増加する。
すでにコントロールできない状態にあるものにたいしては、透明性が重要。
透明性とは公益に即して社会と個人の相互に保証された開示の権利。
何らかの隠蔽や悪質な秘密が発見された場合、組織はその事後対応をいかに迅速に行うかが社会的には重要。

透明性が向上すると説明責任が高まる。
ムーアの法則に則ると、秘密を守るためのコストは、研鑽コストの減少とは逆に増加する。
それは、「誰もが不正行為を隠すことができる」という考えを未然に防ぎ、実際に不正行為を防止するのに役立つ。情報を隠すことができないと悟れば、先を見越してそれを開示するのが実際にはよい方法である。
プライバシーにとっても、過度に守るのではなくユーザーが積極的に企業にデータを提供するための環境整備が必要ではないか

テセウスの船とデータ・プライバシー
古代アテネの王テセウスは、船による戦いで勇名を馳せた伝説の人物。テセウスの偉業と功績を称えるため、人々は彼の乗った「船」を彼の生命の代わりに何世紀ものあいだ保存したが、その過程で木造の船の部品は徐々に腐敗し、新たな部品へと交換されていいった。
ここで、アイデンティティの形而上学を理解するための哲学的思考実験が提起される。つまり、テセウスの象徴としての物理的オブジェクトであった船の部品がすべて置き換えられたとき、それは果たしてテセウスの元の船と言えるのか否か……?

この命題を人間の心や身体に適用する。シンギュラリティの信奉者は人間がテクノロジーの使用を通じて機能的不滅に近づき、そこで人間はテクノロジーと融合し、両者は区別できなくなると主張するが、いま私たちが直面している新たな問いとは「私たちのデータ・プライバシーは私たち自身の一部なのか、それともテクノロジーと一体化したものなのか?」。


どうだった?

ヒトというのは生物的個体だけではなく、その関係性までを含めた総体の事を言う。そのとき、その関係性のどこまでがわたしか?という命題。
また、機械による身体の拡張があった際に、どこまでがわたしか?機械の体にすべて置き換えられたとき、それはわたしなのか?という命題は、まさに大学時代の研究テーマでした。

このとき、いつも、攻殻機動隊の草薙素子のセリフを思い出します。

「人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なの。 他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感。それだけじゃないわ、私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける。」
「私みたいに完全に義体化したサイボーグなら、誰でも考える。“今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。”もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら。その時は、何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」

最近読んだ本において、個人はindividual から dividual(分人)へ進んでいるとありました。講義のなかでもデジタルツインの話が出ましたが、単にデジタルツインが存在しているだけではなく、それが複層化していると感じます。関係性が人をつくると言いつつ、その人の中には関係性が複数ある、どれがヒトなのか?という問です。脳の拡張と自己の境界、そのときのプライバシーとは・・・
過去に読んだP.K.ディックやWバロウズ、ブレードランナー、1984、DEFCON、ハッカーコミュニティも話題に出て、大変なつかしく、また、このテーマについては以前として残っているのだなと感じました。
ある意味、「予想された未来が到来した」のかなというところでした。

よろしければサポートお願いします!