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例のパッケージをデザインの観点から議論することは、やめにしておきたい

某青いコンビニさんのPB商品の新パッケージを、デザインとして云々する人が多いですけれど、あれをデザインの土俵で云々するのは、やめたほうがいいと私は思います。
注)ちなみに私はパッケージデザイナーではないです。

いきなり結論ですが

表現者はおそらく、
あのパッケージのスタイリング単体がやりたかったことではなく、
あのスタイリングによって引き起こしたこの状況こそが意図したものであり
だからこそ提供者は「事例」ではなく「作品」と称しているのです。

そう、これは実験であり、アートという認識です。

だから、あのパッケージをデザインで議論することに意味はないのです。

アートとは、デザインとは

アートとデザインについての考察は、
以前に書いたこちらが私の基本となっています。

端的に申しますと、

デザインは行動想起が第一義で、行動が評価。
感情の励起は必要とされない。※標識に感動させられても困る。

アートは感情励起
が第一義で、引き起こす感情の多様さと振れ幅が評価。
行動は想起されなくてもよい。※モナリザを見て行動しようとは思わない。

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更に言うと、

デザインは、意味(=コンテクスト)を形に調和させる試み。
形をコンテキストに合わせていく活動であり、
形にコンテキストを後付けする活動ではない
表現物には意味が誰にでも受け取れる形で表現されているのが理想的。
意味を受け取った側が起こした行動の量と正しさにより報酬が授与される、
アートは、形や状況に対する意味性の付加。
意味性を受け取れる知識を要求される。
形そのものを受け取ることではない。
だから、受ける側が意味性を理解するために知識と経験をもつ必要があり、
そのため理解度のヒエラルキーが発生する。
理解度によって価格が決定される。

アートの端的な例として村上隆さんを上げさせていただきます。

すなわち、
提供側の意志の表現に対して、意味が後付されるものは、
デザインだとは呼べず、アートです。

(と私自身が導き出して勝手に思っています。)

今回の状況はどうでしょうか?

店内のビジュアルとして

・統一感を出す
・周りが主張する中、敢えての静けさで目立たせる

という点において多少効果はみられますが、幾分相対的です。

パッケージのビジュアルとして

・味覚を励起しない。
・差異の判別がしにくい。

という意見が多いです。
これはコモディティ商品のパッケージビジュアルとして
機能を果たしているとは言い難い。
行動を想起させているとは言い難いと感じます。

・一見わかりにくくすることで、きちんと選んで比較することを奨励

という行動の促しはあるのかもしれません。ただし、他が変わらずに、PBの商品パッケージだけにそのメッセージをもたせることには無理がある。
それが行き着くと、コンビニエンスストアがコンビニエンスでなくなる(なにも考えなくても必要なものが必要な時に手に入るではなくなり、いつもなにか考えて選ばねばならない)ともなるでしょう。

・家に置いてかわいい

は、正直好き嫌いの問題に帰結してしまいます。(私はどぎついアメリカンなパッケージを家に置きたいと思います)
後付けの理由と感じますし、好き嫌いもあるので、特定の層にしか届かないでしょう。そのような選民性もはらんでいます。

そして、

マーケティングとして、

・好きだ、嫌いだ、よい、わるい、の多様な議論が、
・良くも悪くも盛り上がった。

上記のようなことを、
受け手である消費者側が「ああだ」「こうだ」と
意味性を勝手に付加して評価しています。

さらに、その意見で付加している意味性と受け取り方は
一般消費者、デザイン界で差があり、議論になりました。

議論をおこしたことは成功と言えるでしょう。


私の定義した形でいくと、

感情励起しており、行動想起しているとは言い難い
・意味性はスタイリング単体ではわかりづらく
 世に出てから世間によって付加された。
・知識によって受け取り方に差があり、議論を巻き起こした。

すべて、上のほうでアートに定義したものに当てはまります。

賛否両論を生み出しているこの状況そのものが、
すなわちアートと呼べるものだと考えられます。

さらに、アートと呼べるもっとも大きな理由は、
表現側が「作品」と自称していること。

わたしたちの提供するデザインとは、
受け手となる人が中心にあり、提供することによって受け手となる人の行動を改善していく試みであり、コンテキストによって形は変化するものであるため、解の一つという意味で「事”例”」と呼んで紹介されることが多いと思います。

「作品」と呼ぶ場合、
それは受け手となる人を中心としておらず、自分を中心として生み出した、コンテキスト度外視の表現物として呼んでいるのではないでしょうか。


あのパッケージがアートであるならば

購入後の生活空間に入り込むノイズをへらす、という観点では、
あれを作品として完成させるには、究極には白無地でもよかったわけです。そしたらむしろモダニズム、ミニマリスムを宗教的に礼賛するひともいたでしょう。

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パッケージとして何が入っているかわからない。
それはパッケージとして在り得るのか?みたいな。アート的です。
たぶん、感情の想起の幅、好悪の意見は半端無かったと思います。

でも一般消費者としたら、コモディティに、否応なく感情を想起させられても困るわけです。

コモディティに必要なのは、判別の容易さ、一択です。

デザインの本質

ある物事について、それを真に理解し、ふさわしい姿を与える。そのとき顕れた美しみを、人々はdesignと称する。

Design is a relationship between form and content.
(デザインとは形と中身の関係である)
— ポール・ランド

デザインと言う言葉

日本ではアートとデザインが混同されています。
理由は日本には「デザイン」という言葉が二回輸入されたから。
一回目は戦前に「設計」という意味で。
二回目は戦後に「意匠」という意味で。

「デザイン」を辞書で引くと、三つの意味があります。
一番目が「意匠」、二番目が「図案を考案すること」、三番目が「設計」。

欧米では一番目と二番目はスタイリング(デザインとは呼ばない)。
三番目の「設計」がデザイン。
「おしゃれに仕上げておいてね」の領域を担当するのはスタイリストです。

あれは、スタイリングを用いたアートなのです。

デザインにはなくて、アートにはあるもの、
それは選民性だと理解しています。

彼らの表現物は良くも悪くも「作風」であり、頼むとああなるのはある程度予想できる。表現および表現者にはなんの罪もないです。

ただし、その表現物がもたらすものを想像できず、区別できず、
ネームバリューだけでデザインという戦略事項そのものを外部に丸投げしたように見えるのは、経営としてはお粗末だったか、と私は思います。

青いコンビニさんは「何」をしたかったのだろう。
その「何」を考えることまで、丸投げで外注しちゃってなかったか?
それだけで全部解決すると思っちゃってなかったか?というところを私は問いたい。

根底には、たぶん「私達は変わりたい。」という気持ちがあったのではないか?そして「どう変わりたい」はまだ言語化できていないのではないか?

デザインの力で「自分を変えたい」ならば、まず
自らそのメッセージを強烈に出して、自分に自覚させることから始めるのはどうだろうか。

と熱くなってしまいました。


参考にさせていただいたnote


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