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なぜ、ハンコ文化がバカにされるのだろうか?

最近、

の記事を契機に、「ハンコ文化の日本オワタ」や「まだ印鑑使って消耗してるのwwwwww」みたいな印鑑文化を揶揄する言葉がSNSで飛び交っているのを目にする。

ただ、私自身は過去の経験として、印鑑を所持していなかったことで契約が成立せず、結果として自分の身が助かったような覚えもあり、ハンコ文化が一方的にディスられるのも可哀想だなと感じている。

印鑑いやだっていう「お気持ち」は理解するが、じゃあどうしたらいいか?を考えてみたが、かんたんには結論は出なかった。ただ、少なくとも印鑑を気安くバカにできない気持ちになったので、思考結果を共有する。

なぜサイン文化と印鑑文化にわかれたか?

歴史から見てみる。

世界

メソポタミア、エジプト、インダスの昔から、彫刻による印鑑は正統性の表現として使われていた。
古代中国にも同じような文化があり、経由して日本に取り入れられた。歴史教科書でも有名な『漢倭奴国王』の金印は、漢王朝が日本を属国として認めるとする正統性の証として使われた。
ただし、隋や唐の王朝時代には書道の発展に伴う識字率の向上で、印鑑を私印に使うことは減ったようだ。

隋・唐の時代には書道の発展を背景として署名が用いられるようになり、公文書や書状に私印が使われることは少なくなっていった。その一方、この頃から書画などに用いる趣味・芸術のための印章が使われ始めるようになり、印影そのものを芸術とする、書道としての篆刻へと発展していく。
 --Wikipedia引用

ヨーロッパでも15世紀頃まで貴族を中心に印鑑は利用された。(手紙の封印等で溶けたロウに印を押すシーンを見たことがあると思う。)主に識字率の低さにより文字でサインを書けず文書の正統性を確認できなかったからであろう。
ただ、16世紀の宗教改革を端緒に人文主義という文化的革命がおこり、識字率が向上した。さらに政治的にも封建社会が潰えることにより、印鑑文化が覆ったという歴史があるようだ。

欧州では15世紀以降、識字率の向上や人文主義の高まりを背景としてサインが併用され始めるようになり、19世紀になると欧州における印章は廃れてほとんどサインに取って代わられた。その後も貴族階級では、中世からの伝統として家の紋章を記した印章を手紙の封蝋に用いる習慣を続けていたが、それも第一次世界大戦を経て貴族階級が没落していくと使われなくなった。現代の欧州における印章は、一部の外交文書、旅券、免許証、身分証明書など限定的な用途に用いられるのみで、印章の歴史についての学術的な研究すらも盛んではない。 --Wikipedia引用

いずれも 権力者の交代 と 識字率の向上 が印鑑を捨てるきっかけとなったようである。

日本

翻って日本では、封建社会が潰えるような市井の人々からの革命的動乱は体験してこなかった文化的背景がある。
まず隋や唐から輸入した各制度とともに印鑑が輸入された
古来からの王朝(天皇家)はずっと続き、途中、王朝の力が弱まった時代において、豪族や有力武士などが「花押」という独自のサインを流通させていたこともあるがが、紙での文書交換をおこなう上流階級のみの習慣であった。
江戸時代においても、実質権力者は天皇が任命する形の将軍職であり、天皇家の持つ印璽の正統性は失われなかった。また士農工商という身分制度、 男女間の役割の相違を強調する封建的思想 などの影響により、読み書き能力の普及は 階層間職業間男女間で大きな格差がみられた。

日本において印章が本格的に使われるようになったのは、大化の改新の後、701年の大宝律令の制定とともに官印が導入されてからであると考えられる。当時の日本における印章の用法は、隋・唐における用法が模範となったものの、それ以前の中国での歴史的用法は伝播しなかったため、中国とは趣を異にするものとなった。律令制度下では公文書の一面に公印が押されていたが、次第に簡略化されるようになり、平安時代後期から鎌倉時代にかけては花押(意匠化された署名)に取って代わられた。しかしながら、室町時代になると宋から来た禅宗の僧侶たちを通じ、書画に用いる用途で再び印章を使う習慣が復活することとなり、武家社会へと伝播していく[49]。戦国時代には花押にかかる手間を簡略化するため、大名の間で文書を保証する用途に、略式の署名として印章が使われるようになる(織田信長の「天下布武」の印など)。 --Wikipedia引用

日本では、先述のような中国・ヨーロッパの例にある、
権力者の交代 と 識字率の向上 を経験しなかったため、
印鑑が廃れなかった
ということが推測される。

サイン、印鑑の利用用途

いずれも
確認・承認手続きの明示
文書の正統性証明
であると考えられる。

上記の用途を満たすための最高の手段が自筆のサインなのか、印鑑なのか、電子の秘密鍵なのか、他のなにかなのか?は議論の余地があると個人的には思っている。

まず確認・承認手続きの明示については、サインでも印鑑でも、視覚的に確認できるため、どちらも大差ない。
手続きの速度については、よく印鑑だと承認が遅れがち…などの印象論が取り上げられるが、承認フローが流れないのはそれがフローだからであり、手段がサインか印鑑かに本質的問題はないものと認識する。

文書の正統性証明については、サインにみられる人そのものが証明するとするのか、 印鑑・電子秘密鍵方式にみられる人を介した手続き(儀式)がそれを証明するとするのかに分かれる。

よって論点を文書の正統性証明に絞って考える。


サイン/印鑑/電子秘密鍵における正統性の証明

サインの正統性
サインを書く「人」が担保する。
サインは人が筆記具を用いてその場で書くものであり、筆記具を使う文化のもとであれば、偽造は容易である。言い換えれば、サインは書く側でなく、書かれた側の権利を保護するものである。サインが偽造された場合の書いた側の経済的社会的損失は契約と保険により自己責任でカバーする。サインの欺きは罪になる。
本人性が重要なので、サイン権限の第三者への移譲ができない。サイン文化の国で厳密な本人確認が必要な場合のために「公証人」という存在があり、契約ごとに公証人に裏書きして承認してもらうことで、正統性を担保している。公証人は契約ごとに必要とされ、公証人との日程調整や手数料の支払いなどが、契約ごとに発生する。

印鑑の正統性
印鑑の正統性は本来「権力者」である。ただし、権力者ひとりの活動には限界があるので、印鑑を押すという行為、およびその印鑑へのアクセス権を設定し、正統性を担保する。日本では、現在は独裁王政ではないので、正統性を行政が運用する形となっている。
印鑑という本来は偽造が難しいもの(石や金属などの彫刻が困難なもの)をキーとしているので、印鑑を押された側の権利だけでなく、押す側の正統性も保証する。三次元の物体であるので、印鑑自体へのアクセス権をコントロールすることで、第三者への権限の移譲ができる特徴がある。印鑑のセキュリティレベルも担保できる。万が一の偽造については、契約と保険でカバーし、また印鑑の偽造による欺きは、有印私文書偽造罪という罪となり罰せられる。
厳密な本人確認が必要な場合のために「印鑑登録」という存在があり、行政府に印鑑を登録することで、どんな契約であっても、印鑑登録証を添付することで、正統性を担保している。

電子秘密鍵の正統性
公開鍵と秘密鍵で認証するため「暗号化技術」が担保する。秘密鍵暗号データという偽造が難しいものと物理の端末をキーとし正統性を保証する。端末内のデータであるので、第三者によるアクセスが容易であれば、正統性自体が失われるので、端末自体へのアクセス権をコントロールして、権限を守る必要がある。その場合端末への別の手段での認証(生体認証など)をすることで、正統性を担保できるが、第三者への権限の移譲は難しくなる。万が一の偽造については、契約と保険でカバーすることとなる、また偽造による欺きは、有印私文書偽造罪という罪となり罰せられる。
厳密な本人確認が必要な場合のために、利用サービス毎に「鍵の登録」という手続きがある。サービス毎、端末毎に登録が必要である。


上記をまとめてみるとこんな感じ。スクリーンショット 2020-02-12 15.50.54

こうして見てみると、簡易な契約、日々の手続き等については、やはり最も簡便な「サイン」に優位性があると思われる。

一方、厳密な正統性確認が必要なケースでの、サインの利便性は著しく低い。むしろ印鑑という手段の合理性が見えてくる。

また電子認証では他の手段と比べ、コストや永続性に問題がありそうだ。

サイン至上主義、電子認証バンザイとして、印鑑ヘイトに陥ることは、厳密なケースにおいて決済のスピードをむしろ遅くしたり、国力を弱める結果につながる危険性もあると感じる。

そもそも、ハンコをなくして手続きがスピードアップするかが微妙だ。
業務フロー変えずにサイン化、電子署名化したら、
ハンコがないから出社!と同じように、
公証人日程合わず1ヶ月先まで締結てきない!とか、
電子署名入ったパソコンを使うために出社しなきゃ!とか、する未来がすぐそこに見えてしまった。

また、楠正憲さんのnoteでの言及を見て、我が意を得たりという思いである。まだハンコ以外の方法がハンコを超えられてないだけなのだ

OSをアップデートしただけで急に動かなくなったり、将来いつサービスを止めてしまうか分からないようなサービスしか提供できないようじゃ、お話にならない。
はんこ業界を叩くよりも前に、はんこよりも低廉で使い勝手が良く、長期的に安定して利用できるサービスを提供し、地道に判例を積み重ねていくことこそ重要だ。
業務のデジタル化が進まないのは誰かが反対して止めているからではなく、未熟なデジタル技術が、今なお様々な観点から紙を使った業務フローと「はんこ」に負けているからに他ならない。

単に事務フローの効率化の問題をハンコに転嫁しても事務フローは効率化しない。ハンコ文化に対して「手段の目的化」をディスる文脈そのものが、「手段の目的化」の最たる例であったのだ。

この流れでいくと、お気持ち論から電子サインの導入が進んだ未来の日本で印鑑が廃れるのと時を同じくして、アップルやグーグルなど時の権力を握る存在が「正統性の証明手段」としての物理で使える電子印鑑的なやつを再発明して、世界がそれに乗る流れがくるかもしれない。(妄想)

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