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【酷評注意】実写版『耳をすませば』から考える映画内リアリティについて

どうもグッドウォッチメンズの大ちゃんです。


例に漏れず映画について書き連ねていくのですが、今回はある作品に対してかなり厳しい意見を述べることになるのでご注意ください。


基本的にはいい映画を紹介して、自分の発信によって魅力が伝わって欲しい、映画館に足を運んで欲しいという思いが多少なりともあるので酷評レビューみたいなことはやりたくないと思っています。


ただ、今回紹介する作品に関しては映画を鑑賞するにあたって自分が大事にしていることを改めて整理する上でも絶好の題材だと思ったので記事を書いてみることにしました。


ということで、今回扱う映画は



『耳をすませば』


(Filmarksより引用)

公開 2022年

監督 平川雄一朗

主演 清野菜々

   松坂桃李

出演 山田裕貴

   内田理央

   安原琉那

   中川翼

製作国 日本


≪ あらすじ ≫

読書が大好きで元気いっぱいな中学生の女の子・月島雫。
彼女は図書貸出カードでよく見かける、
ある名前が頭から離れなかった。
天沢聖司―――全部私よりも先に読んでる―――
どんなひとなんだろう。
あるきっかけで“最悪の出会い”を果たした二人だが、
聖司に大きな夢があることを知り、
次第に惹かれていく雫。
聖司に背中を押され、
雫も自分の夢を胸に抱くようになったが、
ある日聖司から夢を叶えるため
イタリアに渡ると打ち明けられ、
離れ離れになってもそれぞれの夢を追いかけ、
また必ず会おうと誓い合う。

それから10年の時が流れた、1998年。
雫は、児童書の編集者として
出版社で働きながら夢を追い続けていたが、
思うようにいかずもがいていた。
もう駄目なのかも知れない―――
そんな気持ちが大きくなる度に、
遠く離れたイタリアで奮闘する聖司を想い、
自分を奮い立たせていた。
一方の聖司も順風満帆ではなかった。
戸惑い、もどかしい日々を送っていたが、
聖司にとっての支えも同じく雫であった。
ある日、雫は仕事で大きなミスをしてしまい、
仕事か夢のどちらを取るか選択を迫られる。
答えを見つけに向かった先は―――。


(引用元 https://movies.shochiku.co.jp/mimisuma-movie/)



原作の10年後を描くストーリーということで話題になっていますが、どうしてもジブリアニメとの比較は免れないわけなので、あの10年後ってそれほど見たいものか!?と感じている人も多かったのではないでしょうか。

私もその1人で鑑賞前の期待値は決して高いとは言えませんでした。

正直、私が大好きな松坂桃李さん目当てでの鑑賞と言ってもいいかも知れません。

とはいえ、今回私が問題視しているのは2人の行く末とかではなく映画の中での物理的な距離感や心理的な距離感の演出があまりにも杜撰だったということです。


個人的には映画というメディアは約2時間という時間的制約がある中で語られることはどうしても限られてくると思います。

物語をどんどん発展させていく面白さという意味では連続ドラマの方が向いていると言えるかもしれません。

だからこそ映画では何を語るかよりどう語るかという過程が重視される傾向があるのではないでしょうか?

この映画に関してはどうしてもその過程がおざなりになっているように思えて仕方ありませんでした。“どう語るか”の部分が余りにも納得いかない描写の連続なので“何を語るか”の部分でどうしても腑に落ちないと言いますか...。


具体的には距離感の演出がちょっといい加減過ぎやしませんかということです。

この距離感というのは、映画の中でどこまでがあり得る事象でどこまでがあり得ない事象かを示すにあたってとても重要なことだと私は思っています。

なおさら本作では日本とイタリアの遠距離恋愛が描かれるのでより“心理的距離感”と“物理的距離感”の演出が重要になってくるはずなんです。


ひとまず、イタリアと日本という“物理的な距離”は設定の段階でクリアできているとします。

(イタリアのシーンはグリーンバックで撮ったんだろうなっていうガッカリ感が映像に露わになっている点はここでは置いておきましょう。)


それでは、“心理的距離感”の描写はどうか。


雫は24歳の若手社会人で編集者の仕事をしており、書き手の仕事も志しているが夢を諦めようかと悩んでいるという状況。一方の聖司はイタリアで音楽に打ち込んでいる。

このことから、雫は聖司に対して負い目を少し感じているという設定になるので、本来ここが遠距離恋愛を描くにあたって物語のトリガーになり得る要素のはずです。


ただ余りにも雫が物語を書くための努力をしている様子が見えてこない。

現時点での本職も、仕事のスキルのなさゆえに自己嫌悪に陥るという描写なら聖司に対する負い目に繋がる悩みだと思うのですが、本作での彼女はやるべきことをやらずに、ただ仲間内で愚痴っているようにしか見えないのです。

(というかこの周りの仕事描写は正直呆れるほど雑な描写の連続...。)

書き手を志している雫が今まで書いてきた原稿を段ボールから、取り出す描写があるのですが、その量が物理的に少なすぎませんか?

本当にあなた頑張っている??と感じてしまう人もかなり多かったのではないでしょうか。

それとこの年齢の社会人ならイタリアという国に行きたくてもなかなか行けないという経済的な事情もあると思うんです。

この作品でそんな社会性は求めてないと言われればそれまでかも知れませんが、そこの葛藤は友達に思いをぶちまけてあっさり解決します。

え?今までの10年間はなんだったの?というほど呆気なくイタリアへ雫は旅立ってしまいます。

ここでついにギリギリ成立していた“物理的な距離感”の演出までも崩壊してしまうのは目も当てられませんでした。

とはいえ、久しぶりに再会した2人のぎこちない食事シーンは“物理的な距離感”は解消されたのに“心理的な距離感”は解消されていないという意味では本作で1番いいシーンだったと言えるとは思います。

この倦怠期カップル路線に発展させることができれば“10年後”を描く意味もあったかと思うのですが、残念ながらあまり深掘りはされず...。


さてここで、この記事のタイトルにあるように映画内リアリティの話に入っていきます。

ここまで起こった出来事だけ断片的に整理すると、

「雫と聖司は遠距離恋愛をしている」

「若手の社会人なりに悩みを抱えて生きている」

「なんとか吹っ切れてイタリアで旅立ち再会する」


そこまで、リアリティがないわけではないんです。ですが、この映画を観ている間、私はこの作品に映画としてのリアリティを感じることはできませんでした。

それはこの映画が「どう語るか」の過程をおざなりにしているからに過ぎません。


現実世界で起こりうることが映画の中でリアリティーをもたらすかというと必ずしもそうではないと思います。むしろ私はそこはさほど重要ではないと考えています。


SF映画だって、アクション映画だって、現実世界には起こり得ない出来事に観客が夢中になるのは映画という世界の中にリアルを見出すことができているからだと思うんです。

そのためにこの映画の世界では、物理的にここまでできて、ここまでできないという線引きをさりげなく演出で積み上げていく必要があります。


『耳をすませば』の中でリアルを感じさせるには仕事に対する葛藤、仕事に明け暮れる中で夢に打ち込めない葛藤、恋人との距離があらゆる意味で離れていくことに対する葛藤が描かれなければいけません。

それらがこの映画の中では描かれているとは到底言えないでしょう。

さらに、重箱の隅を突くようで恐縮ですが、過去回想パートで、雫と聖司が雨宿りをしていて聖司だけは傘を持っていて相合傘をして帰ることを提案するが雫は照れからそれを受け入れられず聖司が先に帰ってしまうという描写があります。

一向に止まない雨に痺れを切らし、走って帰ることを決意する雫に、聖司がいつの間にか現れて傘を差し出したときには思わずため息をついてしまいました。


(C)柊あおい/集英社(C)2022『⽿をすませば』製作委員会


流石にこの距離感で差し出されたら、聖司は雫が見えるところにいるはずなんですよ。

これほど距離感が大事な物語なのに、このようないい加減な演出をされたら、私はこの物語で何を語られても信じることができなくなってしまいます。

本筋にはそこまで関わらないシーンかもしれませんが、こういう細かい描写の積み重ねで映画は作り上げられていくのでやっぱり私としては見過ごせないポイントです。

雫をもう少し外側に走らせるだけでシーンとしては全然成立するのにそれすらしないとは、もう手を抜いているとしか思えないです。


距離感の演出として比較しやすいのは今年公開された深田晃司監督の『LOVE LIFE』ではないでしょうか。

団地に棟と棟の間、職場と職場の距離を表現するために長回しのカメラワークで観客に体感させることによって、終盤の主人公の選択の重大さを際立てる素晴らしい演出でした。

この2作を見比べてみると、違いが如実に表れるかと思います。


それとリアリティという面でいくと、俳優陣の演技についても私はあまり魅力的には感じられませんでした。


アニメの『耳をすませば』は起こっている出来事だけ抜き出すとジブリ作品の中では圧倒的に実写化しやすい題材だと思います。

それは、先ほど述べたことと矛盾するかもしれませんが単純に物語内で起こる出来事が現実世界のリアリティと乖離がほとんどないからです。

日本の映画業界は予算が出づらいので大規模なVFXが必要になればどうしても画面がチープになりやすくなります。

とはいえ名作と言われるハードル高い作品を超えるほどのクオリティを生み出すのはかなり難しいはず。

それなら生身の人間が演じる演技こそがアニメ作品を上回れる実在感、観客に自分たちの話だと共感させやすい効力があるかもしれないと私は考えていました。

ところが、蓋を開けてみるとアニメ版のキャラクターの方が遥かに実在感があるとはこれはどういうことでしょうか。

思うに、アニメ版ではキャラクターの歩く、走る、描く、演奏するというアクションの描写が繊細でありながらとても躍動感に満ち溢れているからです。

雫が走っている時に、後ろから呼びかけられて少し歩幅を狭めながら後ろを振り返るというこの流れるような所作を見るだけでも心地よさを感じれるほど。


ただ、今回の実写版では本来とても繊細だった描写を何も考えずにただアニメっぽくトレースしているようにしか見えませんでした。

特に中学時代の過去パートは演技経験が少ない子役たちが演じていることも相まってかかなり観るのが個人的に辛かったです。

ですが、そこに俳優陣の責任はないと思います。

キャスティングの決定権を持ち、最終的にテイクにOKを出した制作側に問題があるのではないでしょうか。


役者の演技に拙いところがあれば観客は、まず役者を責めると思います。

即座に監督の演出に問題があると指摘する人はよほど映画が見慣れている人でないとほとんどいないのではないでしょうか。


かなり厳しい指摘になりますが、自身の演出の甘さによって1番最初に恥をかいてしまうのは役者だという意識は監督にほとんどないのではないかと疑っていまいます。


日本映画界で活躍し才能が注目を集めている三宅唱監督は『ワイルドツアー』という作品で、子役たちと映画を作るときに、親戚たちにも観られることを想定して、何が1番自分にとって恥ずかしいと感じる子供たちと話し合ったと言います。

そこで子供たちは自分たちの演技が自然じゃなかったら恥ずかしいと答えて、それなら一緒に一生懸命取り組もうと現場の士気を上げたというエピソードがあります。


そういった配慮をせめて演技経験が少ない俳優たちには配るべきだったのではないでしょうか。

(現場のことを見ているわけではないので言いがかりかもしれませんが...。)



ここまで、色々否定的な意見を書き連ねてきましたが今回に『耳をすませば』を好きな人の意見を否定するつもりは一切ありません。


先ほど述べたように断片だけ切り取っていけば、一応物語として成立はするので音楽の力も相まって感動する人がいるだろうなとも思います。


それでも個人的にはどうしても許せない描写の連続で自分がどのように映画を観ているかを向き合う意味でも絶好の機会だったので今回このような内容を書いてみました。


今後は基本的に自分が気に入った作品の紹介をすることがメインとなるので悪しからず。


それではまた次の映画でお会いしましょう。




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