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【感激】初のエドワード・ヤン劇場鑑賞『エドワード・ヤンの恋愛時代』から受けた感銘

個人的に好きな映画監督を3人挙げろと言われたら確実にその一人になる
エドワード・ヤン監督。
既に亡くなっていて新作を観る機会は一生叶わない。
自分が映画を好きになったのはここ数年の話なので、
『牯嶺街少年殺人事件 』のリマスター劇場公開には間に合わなかった。
もう一生映画館でエドワード・ヤンを観ることはないのか。
ふとしたときにそんな失望が襲ってくるしがない映画ファンだったが、
『エドワード・ヤンの恋愛時代』をリマスター上映にてついに人生で初めて
エドワード・ヤンの作品を映画館で鑑賞。
この記事ではそんな個人的な感慨は程ほどに作品としての凄みに少しでも迫れたらと思う。


あらすじ 概要

『エドワード・ヤンの恋愛時代』は1994年に台湾で公開された映画。
1991年に公開された大傑作『牯嶺街少年殺人事件 』後にいくつか演劇の演出を務めた後に制作された作品だ。当時から絶賛を受けたわけではないが、若者たちがもがき苦しむ姿はむしろ現代の方が共感を呼びやすいのではないかという声も多くある。

出典 https://realsound.jp/movie/2023/06/post-1340618.html 

急速な西洋化と経済発展を遂げる1990年代前半の台北。モーリーが経営する会社の状況は良くなく、彼女と婚約者アキンとの仲もうまくいっていない。親友チチは、モーリーの会社で働いているが、モーリーの仕事ぶりに振り回され、恋人ミンとの関係も雲行きが怪しい。彼女たち二人を主軸としつつ、同級生・恋人・姉妹・同僚など10人の男女の人間関係を二日半という凝縮された時間のなかで描いた本作は、急速な成長を遂げている大都市で生きることで、目的を見失っていた登場人物たちが、自らの求めるものを探してもがき、そして見つけ出していく様を描いている。

映画『エドワード・ヤンの恋愛時代』4Kレストア版公式サイト (bitters.co.jp)

早すぎた傑作たるゆえん豊かな人物表象

エドワード・ヤンの作品ではもはやいつものことだが、今作は登場人物が多い。10人の男女の2日半という短い時間軸を膨大なセリフによってスピーディーに展開されていく。
おおまかに整理すると、
・モーリー 財閥の娘 自身が経営している会社も芳しくない状況で
      婚約者との関係性も不安定
・チチ   モーリーの仕事仲間で親友の間柄。キュートな笑顔が見せかけ    
      なのではと周囲から訝しがられる。
      やはり恋人と上手くいっていない。
・アキン  モーリーの婚約者で大財閥の御曹司。
・ミン   役所勤めの公務員。チチの恋人
・バーディー 人気の舞台演出家。モーリーたちの同級生
・モーリーの義兄 ラブロマンスの名手と人気を誇っていた小説家

その他にも、モーリーの姉やアキンのコンサルタントやモーリーの会社の社員が物語に絡んでくる。
なかなかに複雑な相関図だが、表面上社会的には成功者に見えるひとたちの右往左往する姿を描いているのが面白い。
富裕層っぽさ、女性らしさ男性らしさに囚われていない人物造形だ。
飽くまでそれぞれが抱える苦心を等身大の人物として描いていく。
そして、とにかくよく喋る。そして、俗っぽい。
人の話もまともに聞かない。
八つ当たりや告げ口、不倫、仕返し、噂話などなどエドワード・ヤン作品に登場する人物たちが抱えていたミステリアスな様相とは裏腹の人物たちだ。
ただ、ここに出てくる人物たちは大事な話をしない。
というより本当に思っていることを口にできない、する暇がないとも言えようか。
目の前の問題に追われ、売り言葉に買い言葉であっという間に時間が過ぎ去ってしまう。
2日半という時間が作品のなかで経過するが、次第にどうなっていくかは後述するとしよう。

卓越したワンシーンワンショット

映画の作りについて触れるなら、今作の最も特徴的な面はほぼすべてのシーンがワンシーンワンショットで撮影されていることだろう。
通常の会話シーンなら、向かい合う人物のショットを交互に切り取って編集することが定石ではあるが、今作ではそのような切り返しショットは全く使用されていない。
決して撮影技術をひけらかすような長回しではなく、作品のテーマ性と直結している演出なのではないかと私は考える。
セリフが飛び交う今作で切り返しショットを用いると画面が忙しなくなるのを防ぐ情報整理という面もあるだろう。
しかし、それだけではなく会話の交わらなさをこの長回しで表現したかったのではないだろうか。売り言葉に買い言葉で瞬発的に乱立する言葉たち。
ただ言葉だけが飛び交っているだけの空気、そのどこか滑稽でありながら虚しさがこの長回しに収められているような気がした。
また、今作の制作に至るまでエドワード・ヤンは演劇の演出も行っていたという。翻訳はされていないがYOUTUBEに探せばあるので気になる人はそちらを見てもらうのがいい。(私は未見だが...。)
おそらくそこで得た手ごたえがこの作品にも活かされているのだろう。
エドワード・ヤンはこの作品でワンシーンワンショットにかなりこだわり、それゆえに撮影が長引いてしまったという証言も残っているくらいだ。
ただ飛び交っているだけの言葉の虚しさと、本当の言葉が紡がれる見逃せない瞬間を長回しということも忘れるほどの素晴らしい撮影で、
見事に捉えていると私は感じた。

夜に浮かび上がるもの

エドワード・ヤンといえば、暗闇の中の表現は代名詞と言えるくらに卓越している。今作もそれは同様で特に昼間と夜更けのコントラストはかなり意識的に描き分けがされていたように思う。
エドワード・ヤン作品の中では比較的被写体にカメラが近く顔が明瞭に映っている昼間とは裏腹に夜の時間帯になると途端に人物の表情が闇に包まれていく。通常であれば、見えない顔から紡がれる言葉には信ぴょう性を疑わせてしまう効果があるだろう。得体の知れないものから発せられる情報に困惑や恐れを抱いてしまうのは無理からぬことだ。
しかし、今作では暗闇の中で紡がれる言葉にこそ真実味を見出している。
見えない顔から言葉そのものが浮かび上がらせることで、今まで吐き出せなかったことが少しずつ露わになってくるように感じるのだ。
夜明けごろ、会社で一人佇むモーリーとそこにやってきたチチのシーンは最も印象深い。(ここでのシルエット使いもカッコいい)
疲れ果てたモーリーは『用がないなら来ないで』と素気なく伝えるが、チチはこれを『用があるなら来てほしい』と捉えて、モーリーのそばへ駆け寄る。
あらゆる出来事を経てチチは言葉の表面だけを捉えるべきではないと
気付き、モーリーの言葉に耳を傾ける。
『この仕事やっぱり好きじゃない』と漏らすモーリーに『それに気付けたことがまずよいことよ』と諭すチチ。
バタバタした日常を経て、心の奥底に締まっていた静かな嫌悪感を引きずり上げるところに今作の肝があるように思う。
売り言葉に買い言葉で罵り合っていた昼間の時間から、相手の話に耳を傾け静かに想いを伝える夜の時間。
この洗練された時間の対比こそが今作を傑作たらしめているように感じた。

『牯嶺街少年殺人事件 』へのカウンター

今作は当然1本の映画で完結しており、かつエドワード・ヤン作品の入門としても一つの最適解ともいえるキャッチーさも纏っている。
ただ、伝説的な傑作である前作『牯嶺街少年殺人事件』のあととなるとどうしても比較を免れない。

【映画レビュー】牯嶺街少年殺人事件 闇の中で微かに灯る光について|グッドウォッチメンズ (note.com)

というのも、この2作が反転しているような要素があると感じた。
それは、演劇の演出家であるバーディーとモーリーの義兄である小説家。
この2人は従来築いてきた作風とは真逆の方向性に挑もうとする。
ここで、悲劇的な内容だった前作からの目配せが窺える。
今回はコメディだと高らかに銘打たれてから始まる今作が前作と最も対になっているシーンは小説家とチチが対面するシーンだろう。
『牯嶺街少年殺人事件』では少年が少女に対して「僕がきみを救ってみせる僕が君にとっての光になる」という宣言を告げるがその気概は呆気なく打ち砕かれ最悪の結末に至ってしまう。
それと反転するかの如く、小説家はチチに対して「君は僕の生きる希望だ」と至極一方的な想いを伝えこちらも呆気なく振りほどかれる。
しかし、最悪な結果を招いた前作とは違い、ある種の気付きと微かな希望がこのあと訪れる。
タクシーと衝突した小説家は唐突に人生に生きる希望を見出す。
あなたの作品は人に脅えさせるという妻からの言葉に絶望していた小説家がまさしく覚醒したようだった。
それは絶望の先にしか見いだせない微かな希望を『牯嶺街少年殺人事件』と『エドワード・ヤンの恋愛時代』の2作を通じて表現しているようにも私には見えた。
希望を見出した小説家の一方、演出家のバーディーは夜が更けるにつれ暴力性が露わになってくるところも興味深い。
小説家の作品を盗作したり、忙しなく横柄な様子で記者からの質問に答えたり、とりあえずコメディという安直さだったりバーディーの危うさは至るところにある。
それが夜の時間になると俳優へのセクハラという最悪な形として表出する。
ただ単に夜という時間を肯定しない鋭さが今作にはあった。
極端ではあるが、愚直に製作に突き進んでいた小説家と楽観的で場当たり的なバーディー。陰と陽が複雑に混ざり合ったようなこの関係性はどこかその2作を象徴するようだと言うと言いすぎだろうか。

まとめ

しかし、書いていて自分が何を伝えたいのかわからなくなる。
見た目以上に複合的な要素を持つ作品だと感じた。
表面的なコメディ的空気感の奥底にある切実な想いが浮かび上がるものを照射している。
忙しい現代人にも立ち止まって相手の話に耳を傾け対話する必要性を説いているかのようだ。
どうりで早すぎた傑作と言われるはずだ。凄みを感じつつ何を書いても適切な言葉に思えない。
現代を生きる私にも『エドワード・ヤンの恋愛時代』はまだ早すぎたのかもしれない。

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