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【濱口竜介特集第二弾】『ハッピーアワー』から見る安定しない人間関係


どうもグッドウォッチメンズの大ちゃんです。


先日の『親密さ』レビューに引き続き、高知県立美術館で鑑賞した

作品を紹介していきます。


今回紹介する作品は、



『ハッピーアワー』

2015年製作

監督 濱口竜介

脚本 濱口竜介、野原位、高橋知由

出演 川村りら 田中幸恵 菊池葉月 三原麻衣子


ワークショップを発端に製作された映画で、ロカルノ国際映画祭にて

主演キャストが主演女優賞を受賞するという快挙を成し遂げた作品です。

5時間17分という長尺、ほぼ演技未経験の方々で構成されたキャスティングということもあり、あらゆる面で常識外れな作品ですが、確かなクオリティから世界中でも認められた濱口竜介監督の出世作でもあります。


もはやメディアでも散々語りつくされていますが、抑揚を抜いてセリフを読む「イタリア式本読み」を採用したのもこの作品からですね。

ストーリーをざっくりざっくり説明すると、

37歳の4人の女友達の人間関係を描いたヒューマンドラマといったところでしょうか。


秘密を抱える純

専業主婦の桜子

バツイチで看護師のあかり

キャリアウーマンの芙実


といった人物構成で、一見図式的に思えるこの人間模様が5時間越えの物語が描かれていくことによって思わぬ方向に展開されていきます。


せっかく本読みの話題が出たので、濱口監督の演出法の話から書いていきます。

フランスの名匠ジャン・ルノワールのドキュメンタリーを鑑賞して取り入れたという「イタリア式本読み」は電話帳を読み上げるが如く、脚本に書いてあるセリフを一切の抑揚を抜いて読むというもの。それを何度も何度も繰り返します。

先日のトークショーによると、10分くらいあるシーンでは2日間ほどかけて行うそうです。

この際、俳優は事前にセリフを覚えてこないようにして、本番のテイクで初めて感情を入れた演技をするとのこと。

そうすることによって、俳優が事前に感情の動きを準備することなく、セリフが体に染み込み自然と新鮮な反応が起こせるというものです。

徹底的に準備を行い、本番は俳優に自由にやらせてみるというこの演出法によって生まれた演技が世界にも評価されたというわけです。

こういった背景を知らずに、本作を鑑賞すると通常の商業映画とは一風変わった演技のトーンに面食らう方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、これもまた不思議なことに観客側にもだんだんと馴染んでくるのです。

本読みの鍛錬を重ねているからなのか、濱口作品は通常の日本映画に比べてセリフが圧倒的に聞き取りやすいです。会話劇でセリフが聞き取れないのは致命的なので、音声のスタッフの方の尽力も大いにあるでしょうが、これもひとつ本読みの成果と言えるのではないかと私はにらんでいます。

そういった本読みを経た先に表現される演技は一見セリフの発話が平坦なように聞こえます。

しかし、安易な感情設計に惑わされない分、却ってセリフの強度が高まるような気がします。

こうして積み重ねられた演技の集積によって、いつの間にか登場人物たちにリアルを感じて今も4人の物語がどこかで続いているのではないだろうかとふと思ってしまうときがあるんです。

小津安二郎のカメラにジョン・カサヴェテスの演技を映すという命題をこの映画では達成できているのではないでしょうか。

(俳優の顔を正面から捉えるカメラアングルの強度が凄まじい...)

いわゆる大声をあげてむせび泣くような大仰な演技などとは違う新しい演技のリアリティを濱口監督はこの映画で獲得したと思っています。

本当に出演者の方々は素晴らしい演技を披露されていました。

 

セリフというワードが何度か出てきましたが、濱口作品の中で最も言葉の扱いに注視してみると面白い作品かもしれません。

登場人物たちが発する「嘘」という単語や自分の思考をどこまで話して話さないのか、そういった差し引きが絶妙です。

会話を重ねていくことで、この人たちの情報はわかっても理解するということは難しく感じてしまいます。自分が感じていることをそのままセリフにして相手に伝えるだけでは会話劇としてサスペンス性に欠け、凡庸なものになってしまいます。

本作では「聞かれなかったから言わなかった」というセリフが何度か登場します。

こういうセリフを時折挿入することで、ここで発せられる言葉だけがすべてではなく誰かが抱えている秘密や当人ですら気付いていない自分の感情の揺らぎがもっとあるのではないかと緊張感が生まれ、会話の密度が高まっていきますね。

個人的にはあかりが発した「今、言葉にしたら全部嘘になる気がする」というセリフが印象に残っています。言葉を重んじる濱口作品らしいセリフですが、言葉でしか伝えられないものがある一方で、安易に発せられた言葉による暴力性も描いています。

思えば、そこに一番敏感なのはあかりかもしれません。

ワークショップの打ち上げ時に、講師である鵜飼から発せられる看護師の仕事に対して無理解な「大変ですね。」という言葉に敏感に反応し怒りを露わにします。

言葉によって伝わるものと伝わらないもの。純のある秘密に対して、なぜ言ってくれなかったと問い詰めたり、嘘に対して拒否反応を示したりと一番人との繋がりを欲しているように見えるあかり。

この映画はそんな彼女の後ろ姿で終わることから、人と繋がることの困難さとそれでも対話を重ねることの重要さ尊さを問うてくるようです。


ここから地続きになるテーマでいくと、人間関係の不安定さも大きな要素といえそうです。

印象的なシーンでいくと、見た人だれもが忘れられないであろうあのいかにも胡散臭いワークショップです。

「重心ってなんだ?」というテーマで進められるワークショップですが、人と人とが背中合わせになってしゃがんだ状態から立ち上がるというものや、額と額を突き合わせて相手が念じたことを想像するというワークがあります。

まさしく、これが人間関係の危うさを示していますね。

背中合わせで立ち上がるワークでは、それぞれ体型が異なっていたりと微細なバランスを調整しなければ立ち上がることができません。さっきのメンツだとできていたことが、メンバーの入れ替えでできなくなるなんてこともあります。

まさしくこれは、純を中心に集まった4人の人間関係を暗示しているように思いました。やがて純は物語から退場することとなり、そのほかの人々は右往左往することとなりますが、4人だと平気だけど3人だとなんか気まずい...みたいなことって実際の生活の中でもありますよね。今作の4人も4人でいたらさほど違和感を感じませんが、なぜか純がいなくなってしまうとその組み合わせにしっくりこなく感じてしまうような。

どれだけ近しい間柄でもふとした拍子に崩れてしまう人間関係のもろさと複雑を描いているようです。

純の秘密が明らかになる中盤以降、登場人物たちが転倒するという場面がいくつかあります。

それもこのテーマ性を暗示しているかのようです。

この辺りに解説は三浦哲哉さんによる

『ハッピーアワー論』という書籍が本当に素晴らしく述べられているのでそちらも併せて参照してみてはいかがでしょうか。


また、額をつき合わせるワークは前述の通り、人とのわかり合えなさをほぼそのまま象徴していますね。ちょっとシュールな様相で笑えるシーンでもあるのですが。

他者という存在は濱口作品を語る上で欠かせないキーワードとなりますが、その他者の不可解さというテーマの大きさでいくと、『ハッピーアワー』と『寝ても覚めても』が筆頭に上がると思っています。

(寝ても覚めてものレビューも改めて投稿します)


そして、初見の方が一番心配するであろうことは5時間17分という長尺ですよね。

演技のスキルが向上していく上で作劇の可能性が広がりどんどんドラマが膨らんだということですが、個人的にはさほど気にならなかったというかあっという間に感じました。映画館で上映される際には休憩が2回入るので大方大丈夫だと思います(笑)

半分冗談で半分本気ですが、濱口作品の中でもドラマ的起伏と展開が多く、長さだけ目を瞑れば比較的見やすい作品なのではないかとも思ってしまいます。

胡散臭いワークショップのシーンを乗り越えたらもう大丈夫です!(笑)

というよりワークショップのシーンはめっちゃ重要なのでしっかり刮目してください。

これだけ長尺の映画なのに、あそこをカットすればもっと見やすくなるとかそんな発想に至らないのが不思議ですね。


長尺による鑑賞のハードルだけ超えればある意味普通である意味異様な人間模様が見られる傑作のヒューマンドラマだと思っています。

少しでもこの映画の良さが伝わればうれしいです。

またこれからも引き続き濱口作品の魅力を綴っていくという宣言を残して、このブログを締めくくらせていただきます。



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