我々は復帰摂理歴史の結実体
文鮮明師が基元節を目前に聖和されたことは、私にとって最大のアイデンティティ・クライシスでした。
それまでは漠然と、この方が国連を改革して南北統一を実現して、(夫婦で)ノーベル平和賞でも受賞すれば、世界は再臨主を受け入れるだろうと期待していたからです(こんなはずではない)。
その後世界平和はおろか統一運動が瓦解する様子を目の当たりにしながら、自分が信じてきたものをあらかた疑う必要が生まれました。
そのときに基準としたのが、新旧約の聖書です。
神の救援摂理という統一原理は、確信していました。
その延長にある成約時代はどのような内容であるべきか、自分が実際に目撃したものは何だったのか、ここまで自分に嘘をついていなかったのか、納得のできる「再解釈」をしたかったのです。
摂理歴史の殆どの期間において、神様は無闇に干渉なさることはありません。
では人間が好き放題生きてきたかと言えばそうではなく、その時代を生きる一人ひとりの「心情の基台」によって、予定調和へと近付いたのです。
ところが中心人物が責任を果たせない場合は、予定調和からは大きく遠ざかり、神を信じる者がなぜ苦しむのかというような試練が訪れます。
聖書歴史の中で印象深い出来事が、モーセがカナンの地を目前に力尽きたこと、イスラエル民族がアッシリアとバビロンに捕囚されたこと、イエス様の十字架によってユダヤ民族が、2000年間流浪の民となったことです。
そのどれもが他人事とは思えず、目の前で展開される出来事の教訓に思えました。
私が好んだのは、アモス書やホセア書のような、失われた北イスラエルの預言書です。
摂理を担う人物が次々と脱落していく中で、孤独単身神様だけが、復帰摂理を担われました。
その事情を垣間見たとき、自分なりの「こうあってほしい」という願望が、とても小さなものに感じられたのです。
人類最初の真の父母が地上から取り去られるという惨劇を前にして、「はじめからメシアなんて偽物だったのだ」と信仰を棄てるのは間違いです。
「最終一体の真の父母を信じれば大丈夫」という模範的な信仰も、「こうあってほしい」願望を超えるものではありません。
大切なのは、文鮮明師の再臨もペンテコステも起きない現状で、ここから神様が実行されるリアルな摂理です。
「こうあってほしい」執着が強過ぎると、良心の声を聞けないまま現実感覚を失います。
「真の母が責任を果たせなかったらどうなるか」という疑問に対する答えは、神様が既に準備しておられます。
求める食口には道が示されるでしょうし、選んだ道を間違えたなら、謙虚に受け止めて引き返せば良いだけの話です。
私は神様が文顯進会長と共におられると判断しましたが、後でその選択が間違っていたとして、地獄に落とすような罰が降るとは思いません。
ここまで沈黙される神様にどれだけ談判したか分からないし、摂理を諦めない執念は、誰にも負けない自信があるからです。
判断することを恐れて安全圏に留まる(もはや安全でもないが)食口を眺めていると、とても残念な気持ちになります。