探究は「感動」によって突き動かされていきます。このとき、「ファッションとしての探究」は、もはや姿を消してしまっています。自分自身を「探究」という言葉によって着飾ろうとする発想は見当たりません。
「感動」がドライブする探究。
知の巨人たちは、こんなふうに書いています。
「知的感動」が、自分自身の世界を開けたものにします。しかし、「知的感動」を得るための「計画」を立てることはできません。「ここであなたは感動します」とか「ここまでくれば私は感動できる」とか、言えたもんじゃありません。ふとしたときに、予想を外れて訪れるから「感動」と呼べるのだろうと思います。
この「計画できない知的感動」を動力源として探究が生まれていきます。探究を続けることでしか知的感動を味わうことはできません。この矛盾するかのように見える2つの言説を、矛盾することなく両立させていくところにこそ、探究のおもしろさがあるのだと思います。
私の使命は「計画できない知的感動」が、子どもたちにできるだけ高い可能性で訪れるための環境をいかにデザインするかにあります。
私がこのように「計画できない知的感動」を探究の動力源として位置付けるのは、まさに「計画できない知的感動」を探究の動力源としていた子どもたちとの出会いでした。それについては、また稿を改めて書きたいと思います。