見出し画像

#41_「感動」がドライブする探究

探究は「感動」によって突き動かされていきます。このとき、「ファッションとしての探究」は、もはや姿を消してしまっています。自分自身を「探究」という言葉によって着飾ろうとする発想は見当たりません。

「感動」がドライブする探究。

知の巨人たちは、こんなふうに書いています。

「知的感動はわれわれがその瞬間において「何か新しいことを知りつつある」という感覚を深く感じる時に与えられる。われわれの知識体系が拡大し,確信されつつあるという感覚である。」(盛山和夫「社会学における理論の発展のために」数理社会学会『理論と方法』1-1,1986年,p.73)

「ある哲学の概念についてどんなに多くの知識をもっていようとも,その概念について問うことで心揺さぶられたり,心が捉えられるといった経験がないならば,その概念を理解したことにはならない。哲学の概念は人に訴えかける。その訴えかけを受け止めていないのなら,その概念を理解したことにはならない。」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮社,2022年,p.232)

「一番びっくりしたのは社会学。涙出ました。貧困問題って昔からあって,イギリスでは社会調査までしていた。それを読んだときにはすごい泣いた。社会のなかではなかったことにされていると思っていたんで,貧困というものが。でも,取り上げている人がいたんだって。で,もっと勉強したいと思った。福祉や制度についても。当事者が声をあげて制度を変えてきた歴史を学んでは,一人で泣いて。泣いて泣いて感動して,っていう繰り返しだった。そういう意味では学べてよかったです。(貴戸理恵『「生きづらさ」を聴く-不登校・ひきこもりと当事者研究のエスノグラフィ』日本評論社,2022年,p.165)

「これは数学者のポアンカレが言っていることなんですけれど,「知性の働きは違うところにあるものが実は同じものだと気づくことにある」そうです。そして,両者の距離が離れているほどその発見は生産的なものになる。「あれって,これじゃん」という気づきのことですね。僕は極端な言い方をすると,「あれって,これじゃん」という発見にしか興味がないんです。まったく別の領域で,別の文脈にあるものが,実は「同じ」だと直感した時の喜びって,他の経験では代え難いから。」(内田樹&ウスビ・サコ『君たちのための自由論-ゲリラ的な学びのすすめ』中央公論新社,2023年,p.171)

「知的感動」が、自分自身の世界を開けたものにします。しかし、「知的感動」を得るための「計画」を立てることはできません。「ここであなたは感動します」とか「ここまでくれば私は感動できる」とか、言えたもんじゃありません。ふとしたときに、予想を外れて訪れるから「感動」と呼べるのだろうと思います。

この「計画できない知的感動」を動力源として探究が生まれていきます。探究を続けることでしか知的感動を味わうことはできません。この矛盾するかのように見える2つの言説を、矛盾することなく両立させていくところにこそ、探究のおもしろさがあるのだと思います。

私の使命は「計画できない知的感動」が、子どもたちにできるだけ高い可能性で訪れるための環境をいかにデザインするかにあります。

私がこのように「計画できない知的感動」を探究の動力源として位置付けるのは、まさに「計画できない知的感動」を探究の動力源としていた子どもたちとの出会いでした。それについては、また稿を改めて書きたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?