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第2章
相対的価値の否定、などという賢(さか)しらで意味不明で思っても無いようなキレイごとのことではない。
誰だってブサイクより美人でかわいい子が大好きだ。
(トラウマから性格的にどうのこうの、というのはまた別の欲=理性の話だ)
美が存在できるのは、醜が存在するからという単純な事実に他ならない。
全部が美だったら、誰もそれを美とは感じない。ただそれだけのこと。
全部が善だったら、誰もそれを善とは感じない。それだけのこと。
そして道の世界は、美とか善とかしか溢れていない、極めてつまらない世界である。
ゼロの概念が無いと、有るという概念は生まれない。
難易、長短、高低、音声、前後、すべて同じ。
道の世界には、美とか善しかないから、何もすることがない。
何もしなくても、良いことしか発生しない。
我々は現象(名)のなれの果てであるが、それは道と確実につながっている。
だから本当は我々も道の一部であり、十全たるものの一部である。
だから、この現象の世界においても、何もしないことによって
最高のことをなすことができる。
むしろ何もしない方が良い。
人間が知性や欲から考えることなんて、どうせろくでもないから。
もともと十全なのだから、何もしなくてもすべてをなしえる。
むしろ余計なことをするな、と老子は言いたい。
(道:トルコ・アヤソフィアへの道)