真夏の夕方、それはやって来る
わりと引越しの多い人生で、数年前は、愛知県のとある海沿いの町に住んでいた。
高台にある住宅地で、海水浴場が近い。
引っ越してから数か月後の、真夏のある日、わたしは一人で家にいた。
時刻は夕方。
パソコンを使ってゴソゴソ作業をしていて、セミの声も忘れるほど集中していた。
そこに突然の声。
「わらびぃ~もちぃ!」
は? 何? 今なんて言った?
ギョッとして窓から外を見たけれど、声の正体はわからない。
「わらびぃ~もちぃ! おいしぃ~いよっ!」
あとから聞いて、「わらび餅売り」だとわかった。
でもそんな存在は知らない。聞いたことすらなかった。
「火事だ!」とか「泥棒だ!」とかならまだしも、住宅地の中で誰かが「わらびもち!」と叫ぶなんて、想像出来るはずがない。
しかもよくよく聞くと、ぜんぶ石焼きイモの節回しだ。
「わらびぃ~もちぃ! つめたぁ~くてっ! おいしぃ~いよっ!」
エンドレスに連呼しながら、わらび餅売りの軽トラは、住宅地をゆっくりと通過して行く。
昼間は海水浴場で、わらび餅を売っているのだそうだ。
夕方になって売れ残りが出ると、住宅地に入って完売を目指す。
だから、わらび餅売りがやって来るのは必ず、よく晴れた、暑い日の夕方。
その町にしてみればごく当たり前の光景で、わたしが住んでいる間ずっと、毎年夏になるとわらび餅売りはやって来ていた。
結局一度も買ったことはなかったけれど、毎週のように来ていたということは、誰かが買っていたのだろう。
今でも来ているかどうかはわからない。
でもあの独特の節回しは、何年経っても、はっきり耳に残っている。
思い出すたびに、一度くらい買ってみればよかったなと思う。
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