見出し画像

今後の方針とSNSのキリスト教界隈の現状②

私は情報収集とnote活動を活発にするためにX(旧Twitter)を見ていました。

しかしながら、Xを見ていると昨年とは違う変化に気付きました。
ここから書くことは、オフィシャルなXのアカウントとは違って、個人のアカウントを見ての感想です。

それは3つあります。


①聖霊重視、カリスマ的な信仰者の増加


これに関しては、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たしや、賜物を受けること)にこだわったり、癒しの賜物、異言にこだわっている傾向が見受けられました。
所属教団や教会が分からないため、教会の指導なのか、SNSで影響を受けたのか分からず、とても混沌としています。
ですから、必ずしも聖霊派だとかカリスマ派の教会の方がそのように言っているわけではありません。そこは偏見を持っていただきたくないです。

そして、特に癒しの賜物にこだわる人は、「病気は何でも癒せる」と主張して、病気や障害が癒やされない人を見下し、自分の主張を批判(癒しそのものは否定していない)する人に対して、とても攻撃的であり、批判する人が持ち出す聖言(癒しの賜物を否定する箇所ではない)というものを私的解釈で打ち出して多くの人から批判されていると主張している状況です。

私が見たものとしては、「お腹が痛かったのでイエス様に祈ったら治った、癒しの力ってすごい!ハレルヤ!」とか、恵みを「チープグレース(安価な恵み)」にしてしまうような、癒しの賜物理解が蔓延しているのです。

障害と病気を持つ私としては、苦笑してしまうようなことです。
同じ癒されるなら、もっと大きなもの(誰にも頼れない過去の心の傷、どうしようもない生活の環境、人間関係の断絶とか)がイエス様に癒されればいいのにと思います。
現世利益的な事物を求めるだけなら、キリスト教じゃなくても出来る。
実際に、手をかざして、その手から分けられるパワーから病が癒されるなんて宗教もあると聞いたことがあります。新興宗教ですが。
私たちに必要なのは、自分自身のご利益を求める行いを恥じて、キリストの前に出て救いを、もっと大きな癒しを求めることではないでしょうか。

最もおぞましいのが、「病が癒やされないから、信仰がない」という信仰理解です。これは、全ての病や障害に苦しむ人をキリストから遠ざけるものです。
口先では良いことを言っていても、本心でそのように考えていたら、必ず、どこかの言葉で現れます。それが、その信仰理解を持っている人自身を汚します。

[マタイの福音書 12:34]

まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

それと、サタン中心主義と呼べるような、「病気を筆頭とする悪いものは全てサタンのせい」というような、これまた神の権威を甘く見ていないか?と私が疑問を持つような主張をされている方もおられました。

昨年はあまりこういったものは見かけなかったので正直に驚いています。
カリスマ運動のようなものが水面下で起こっているのでしょうか?

とにかく、癒されないとダメ、聖霊のバプテスマを受けていない信仰者は救われていないという極端なムーブメントは、あまり良くないと思います。
事実、「私は聖霊のバプテスマを受けた」と誇るような人が出てきています。
聖霊の賜物は愛がなければ意味がないものなのですが。

私は聖霊のバプテスマをいつ受けたかも知らない人間ですが、異言が話せたって、聖霊のバプテスマを受けたって、それで何を誇れるのかが分からないのです。
賜物の与え主なるキリストを誇る以外、何を誇れるのでしょうか。

と言いつつ、なんとなく気付いたのは、私が聖霊のバプテスマをいつ受けたか分からないくらい、劇的でも何でもない受け方をしたのは、私が聖霊のバプテスマを受けたと体験主義に傾いて傲慢にならないためだと確信しました。
結局、書いたものは自分に返ってきますね…


②報復クリスチャンの増加


これは、私たちの教会が受けたものです。

私たちの礼拝に参加された方で、私たちの教会方針、司牧といったものに、心砕かれた信仰者となるのに耐えられず、Xで私たちのことを事実を捻じ曲げて晒すような人が増えました。

ですので、司牧とか、個人情報を安心して伝えられるような人間関係、信頼関係を築くことが難しくなっています。

実際に、私たちと話したことを、教会から去った後に、別の人にぶちまけた人がいます。
その後で、不特定多数が見れるところに私たちの悪口を書いた人がいます。(内容がとてもひどいので悪口の内容は書けません)。

ということで、相手が気に食わないと思ったら報復されるということが増えました。

これに対しては、教会の牧師もX上で意見を出しています。

ここで言いたいことは、「あなたは人を名指しにして悪く言うけれども、そう言うあなたは全き義(ただ)しい人なのですか?」ということです。

また、以前にも書いたかもしれませんが、スクショで相手の言葉を撮って、本人の見えないところでアカウントごと晒して批判するというのは今もあります。

ちなみに、これはXでは投稿は所有者の権利です。

Xでの投稿の所有権は投稿者にあります。

また、著作権違反でもあります。
批判するならきちんと引用して批判するべきです。

本人の知らぬところで悪口を言うことは、学校で陰口を言い広めることと何ら変わりありません。
いわゆる、いじめです。
SNSは不特定多数が投稿を見られるので、悪質です。
そして、陰口投稿に「いいね」をつけて賛同するような人も、いじめ加害者と同じで、いじめに加担している者と認識してもいいでしょう。

このトピックを要約すると、神の愛ドコイッタ…となります。


③教会の問題に苦労して、教会探しや教会の所属がない人が増えた


これはオンライン礼拝が広まっていつでも、色んな教会の礼拝に参加出来るようになったのも要因の一つかなと思っています。

教会の問題に悩んで、牧師や司祭とよく話して所属を変えたりするのは、人それぞれの問題なので、なんとも言えないのが現状です。

ですが、無所属の人が増えることで、建物としての教会堂へのこだわりがなくなったりすること。
これについては、内村鑑三の教会観(私は無教会主義ではありませんが)に感銘を受けた人間としては、良いことだと思います。

一方で、教職者が頑な or 信徒が頑なで、教会に所属しない(礼拝にも出ない)とか、あらゆる教会のオンライン礼拝に参加して、一つの教会に定着しない人がいたり、教職者のあまりの頑なさに信徒が傷付いて所属を変えるしかない実情はあると見ています。
あくまで個人の話ですが、Xでよく見るのは、プロテスタントからカトリックになりたい、カトリックの求道者が多かったです。

カトリックとプロテスタントの信徒のSNS上での喧嘩は激化しています。
教団・教派・教会に誇りを持つ人が増えています。
それが良いことか悪いことか、聖書を読むならば、「キリスト以外に誇りとするものなし」というので、悪いことになる。
実際に、教団・教派間のマウントはありました。
ですから、私は自分の教会のことを誇ってはならないと牧師から注意を受けています。


これらのことから、クリスチャンの信仰の衰えが進んでいることを強く感じました。

良いことがあればハレルヤ、悪いことがあれば悪口や陰口、神様信じるのやめようというようなクリスチャンの世俗化が恐ろしいほど進んでいます。

「寝坊したから今日は礼拝に出ない〜」「暑いから教会の礼拝に出ないでおこう」というようなことを言っている人もあり、私は嘆きたくなったと同時に、

そうかと思うと、土用の丑の日の時期に、「礼拝に出たら、おばあちゃんの姉妹からうなぎもらった!」と素直に喜んでいる人もいて、ほっこりもしました。

そして、水の洗礼(バプテスマ)の軽視が進んでいて、洗礼を受けても受けなくてもいいというようなことを語っている方もおられます。
その中には、聖霊のバプテスマを水の洗礼よりも上に置く方々もいる。
ならば、イエス様がバプテスマのヨハネから受けた洗礼はなんだったのか。
水の洗礼は罪を告白し、悔い改めさせ、救いをもたらすものです。
ただの儀式ではありません。
主に献身して、福音を伝えている者ならば、誰でも理解出来ることです。

[ペテロの手紙 第一 3:20,21]

かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。
この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ですから、このようなことがあって、私はもうXで情報収集する必要を感じなくなり、noteとリアルでの学びと祈り、趣味に集中すべきだということを、牧師と話し合って、方針転換しました。

Xで悪口言ってる暇があるなら、信仰に役立つことをしようという当たり前のことです。

noteでの活動は変わりませんのでよろしくお願いします🙇‍♀️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?