見出し画像

過去・現在・未来の十字架の贖罪について

今回は主イエス・キリストの十字架の贖いが永遠に渡る出来事だということを語ろうと思います。

キリスト者の方々ならご存知かと思われますが、キリスト教には「使徒信条」という、西方教会(カトリック、プロテスタント、聖公会)で唱えられる、キリストの使徒たちの信仰をまとめた信仰宣言があります。

使徒信条はこのような文言です。

天地の創造主、全能の父なる神を信じます。

父のひとり子、
わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、
おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、
葬られ、
陰府に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父なる神の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます。

聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪の赦し、
体の復活、
永遠の命を信じます。
アーメン。

使徒信条

これを私たちキリスト者、特に西方教会のキリスト者は礼拝の度に唱えています。

ここで、注目していただきたいのは、下から2段目の「永遠の命を信じます」という言葉です。

永遠の命とは何か?
これはイエス・キリストを信じることによって与えられるものであります。
キリスト者は今生きている地上での人生を、天国、いわゆる神の国までの旅路だと考えています。
ですから、私たちのようなキリスト者はたとえ、体が死んでも、私たちの内に存在する神様から与えられた聖霊と呼ばれるものが生きていると信じています。

[ヨハネの福音書 11:25]

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

イエス・キリストを信じる者は永遠の命に与れる。

創世記を読むと、人間が死ぬようになったのは、人間が罪(原罪と呼ばれるもの)を犯し、エデンの園から追い出されて、神と断絶したからだと分かります。

その神との関係を回復させる働きをしたのが、主イエス・キリストなのです。

なぜ、キリストを信じたら永遠の命に与れるのか、これはキリストの十字架の死と復活という出来事が私たちの贖罪の生贄となったからと信じるからです。

[ローマ人への手紙 5:18]

こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ここで書いてある「一人の違反」とは神が食べてはいけないと言った、善悪の知識の実を食べたアダムのことであり、「一人の義の行為」とはキリストが私たちのために十字架にかかって死なれたことなのです。

そして、そのキリストの十字架の死は一度限りのことであり、何度も繰り返されるものではありません。

[へブル人への手紙 7:27]

イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

イエス様が十字架にかかられるまでは、レビ人と呼ばれる祭司の家系の人々が、罪の赦しのために、毎日動物の生贄を捧げていました。
ですが、先程も述べたように、イエス様はたった一回の十字架で全ての贖罪を成し遂げたのです。

それは、過去・現在・未来に至る私たちの原罪と諸々の罪を赦すためのものでした。

では、本題に入ります。


過去の贖罪


イエス・キリストを信じている方なら分かると思いますが、洗礼を受けた時に、洗礼式の言葉として、私たちが「罪に対して死に、新しく生まれ変わる」ということを語られるかと思います。
この罪に対して死ぬということは、私たちが今まで犯してきた罪がキリストと共に十字架にかけられて死ぬということです。

ですから、洗礼を受けることによって、過去の罪から私たちがきよめられる。
つまり、私たちの罪が赦されるということなのです。

ここで言う罪とは、窃盗や浮気とか、そのような世間で言われている罪ではなく、神との関係が断絶した状態である、アダムとエバから始まった人間の原罪のことを指し示します。

私たちは生まれる前、お母さんのお腹にいる時から原罪を持っていました。
イスラエルの王であったダビデはこのように告白しました。

[詩篇 51:5]

 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ
 罪ある者として 母は私を身ごもりました。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ですから、私たちはイエス・キリストを信じて過去の罪、神から離れていた罪である原罪を赦されることになります。

[詩篇 51:7]

 ヒソプで私の罪を除いてください。
 そうすれば私はきよくなります。
 私を洗ってください。
 そうすれば 私は雪よりも白くなります。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

こうして、キリストに対する信仰と洗礼を受けることによって私たちはキリストの十字架の贖罪に与ることが出来るのです。

ここで、ではキリストが十字架にかかる前の神を信じていた人たち、アブラハムやモーセ、ダビデのような人たちは、十字架の出来事以前に生きていた人たちだから救われていなかったのだろうか?という疑問が浮かび上がります。

もう一度、使徒信条に戻ってみましょう。
使徒信条では、主イエス・キリストは十字架で死んでから、「陰府(よみ)に下り」と書いてあります。

ここの陰府とはどのようなところか?
キリストの十字架の死によって、福音が完成する以前の信仰者たち、先述したアブラハム、モーセ、ダビデたちのような聖書の神を信じる人たちが下ったところなのです。

その陰府にキリストは下り、救いを宣言されました。そして、過去の信仰者たちは神の国に引き上げられたのです。

[詩篇 30:3]

 主よ あなたは私のたましいをよみから引き上げ
 私を生かしてくださいました。
 私が穴に下って行かないように。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ですから、キリストの十字架の贖罪は過去に手が届くものであります。
それは、私たちの過去だけでなく、天の父なる神様を信じた昔の信仰者たちにも表されたものでした。


現在の贖罪


現在の贖罪については、キリスト者は「罪の悔い改め」「赦しの宣言」によって体験すると思います。

私たちは過去の罪が赦されても、人間である限り、罪を犯してしまいます。
それは、人が全く失敗することのないことと同じことです。

キリストを信じる前の私たちはイエス・キリストと一緒に十字架にかかって死に、イエス・キリストと一緒に復活して、新しくなりました。

[コリント人への手紙 第二 5:17]

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

では、悔い改めとは何かと言いますと、一言で言うならば、私たちが罪を犯したことを認めて、罪に向かっているところから、神に方向転換することです。
それには、心を砕かれるという体験があります。
自分自身の自我を通すのではなく、「私は罪を犯しました」とキリストの前でひれ伏すのです。

[サムエル記 第二 12:13]

 ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

このダビデの「私は主の前に罪ある者です」と神の前に告白することが悔い改めなのです。

ダビデという人は、この罪の告白の前にバテ・シェバという既婚者の女性と不倫し、その際にバテ・シェバとの間に子供が出来たことに焦り、バテ・シェバの夫ウリヤに妻と寝るように画策して、妻の待つ家に帰らせようとしていましたが、ウリヤは頑なに家に帰ろうとせず、それに窮したダビデはウリヤを戦場の真ん中に一人で立たせて死なせるように部下に命令しました。

恐ろしいことに、ダビデは不倫と殺人の罪を犯していたのです。
そのことを、預言者ナタンという人が神の言葉を伝えてダビデの罪を指摘して、ダビデは神の前にひれ伏したということです。

神はダビデを赦しました。
ですが、一連のダビデの行為が神に敵対する者、悪魔であるサタンたちに侮りの心を起こさせたため、不倫の時に出来たバテ・シェバとの子供は亡くなると預言されました。

福音が完成する前に生きていた人物であるダビデは神からの裁きが下りましたが、新約聖書の時代に生きる私たちは神に赦しを求め続ける限り、罪に定められることはありません。

[ローマ人への手紙 8:1]

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

キリストが私たちのために十字架で死なれたために、私たちの罪の赦しが果たされました。

[エペソ人への手紙 1:7]

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ペテロの手紙 第一 2:24]

  キリストは自ら十字架の上で、
  私たちの罪をその身に負われた。
  それは、私たちが罪を離れ、
  義のために生きるため。
  その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

未来の贖罪


未来の贖罪ってなかなかイメージが出来ないと思います。
私も初めてこの言葉を知った時に、「未来も十字架の贖罪を受けているってどういうことだろう?」と思っていました。

単刀直入に言いますと、未来の贖罪は私たちがキリストを信じる限りにおいて、未来に罪を犯しても、救いは失われず、赦され続けるということです。

[エペソ人への手紙 1:13]

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

キリスト者は救いの福音を聞いて信じたことによって、聖霊によって救いの証印を押されました。
この証印は取り消されるものではなく、永遠に約束されたものです。
証印を私たちに与える聖霊とはどのようなお方か、イエス様は証言なさいました。

[ヨハネの福音書 14:16]

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ここで、イエス様が仰られた「助け主」こそが「聖霊様」なのです。
イエス・キリストを信じ、聖霊が私たちに与えられた時からずっと、聖霊は私たちから離れることなく、共におられます。

この聖霊の存在が私たちの顔を神に向けさせて、悔い改めと赦しを宣言するものであります。

加えて、イエス・キリストの十字架の死は永遠の出来事です。
このキリストが十字架で死なれた「時」のことをギリシャ語で「カイロス」と呼ばれ、神様が選んだ時、つまり人間の救いのための福音が完成するための時です。
この「カイロス」は一度きりの最も大切な出来事で繰り返されることはありません。

つまり、イエス・キリストは何度も十字架にかかって私たちの罪の贖いをしてくださっているのではなく、たった一回の十字架の死で、過去・現在・未来に渡るまで、私たちの赦しをなされているのです。

[へブル人への手紙 10:14]

なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ここの「一つのささげ物」こそが、イエス・キリストご自身です。

永遠に完成された者、それこそがキリストを信じるキリスト者なのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?