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マリアの導き

なんか本のタイトルのような表題になりましたが……。

プロテスタントの一部の方はマリア崇敬を学んで実践したことがないのに、公に批判することをしています。
私はプロテスタントの方々のマリアに対する忌避感は否定しません。ですが、だからといってカトリックの方々の信仰やマリア崇敬をみことばで攻撃したり、カトリックのことを「異教」と呼んで、非難するのはおかしいです。

そして、カトリックに対して攻撃的な批判をしても、同じくマリア崇敬を実践している東方正教会や聖公会のことには全く触れないのは、主張に一貫性がないと思います。

そのために、私は今回マリアの導きと題して、キリストという神を知ったことを書いていこうと思います。


マリアという星


マタイの福音書で登場する東方の三博士が、ユダヤ人の王であるキリストを見に来たのは、星に導かれたからでした。

"イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」"

マタイの福音書 2章1~2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この星は私たちの教会では、「異邦人のキリストに対する信仰」への導きだと考えています。
そして、そのことが説教がなされたこともあります。
カトリックの教会暦では、同じ意味で「主の公現」という記念日を制定していますね。

星は東方の三博士たちに、キリストの居場所を教え、異邦人に始めてキリストのご降誕を告げ知らせました。

"イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」"

"博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。"

マタイの福音書 2章1〜2、9~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この話から、キリスト信仰へ導かれるには、星という存在が必要なのです。

それは、配偶者など家族だったり、たまたま入った教会の教職者や聖職者だったり、学校の先輩だったり、聖書研究会だったり、賛美集会だったりするかと思います。
キリストに導く星(キリストを知るきっかけ)というのは一つではないのです。

そこで、私をキリストへはじめに導いた「星」は、神の母である「マリア」だったのです。

私はとある修道会が建てた保育園に通っていました。
当時は、親が共働きで実質私の幼少期というものの大半は、祖父母といった人たちと過ごしていました。
家族が身近にいて面倒を見てくれたとはいえ、実の親と長い時間過ごせないことは、私にとってとても寂しいものでした。

そして、私はふと保育園の入り口に備えられたほこらのようなところに置かれたマリア像を見たのです。
私にはマリア像がとても綺麗に見えて、私はそのマリア像に挨拶しました。

「マリア様、今日はお天気です」。
「マリア様、今日もありがとうございます」。

まだ年中や年長といった保育園生だった私は本当に純粋な思いから、マリア像に話しかけていました。同じ保育園の子たちでマリアに関心の目を向けていたのは、私一人だけでした。マリアは私にとっての「友人に近い人」でした。

そして、曽祖母からとある絵本をもらいました。それを読み、幼児であった私は文字が読めなかったので、詳しい内容は全く理解していなかったものの、最初の方だけ読んで、「マリア様がイエス様を産んだ」こと、「イエス様の赤ちゃんの姿」を知りました、

それから、私はマリアを母のような存在として見ていたのです。
私のマリア像への挨拶はずっと続いていました。
保育園から帰る時にいつも挨拶をしていたのです。

そして、私の中で「お母さんのマリア」と「赤ちゃんのイエス様」の姿が刻まれていったのです。


キリスト教との出会い


そして時は流れ、私は大人になりました。
大人になった私は病気になり、マリアやイエス様のことを心の隅っこに置いて、療養生活をしていましたが、ゲーム配信をだらだら視聴したり、友達と遊びにふけったり、自堕落な生活を送っていました。

それで、友達に「配信アプリで聖書を読んで解説している人がいるんだけど、一緒に見に行かない?あなたはカトリックの保育園に行ってたんだよね?」と言われて、私は「聖書…キリスト教だよね?」と思い、ふと、マリアとイエス様のことを思い出して、その聖書朗読と解説の配信にお邪魔しました。
そして、その配信をしていたのが、今私が所属している教会の伝道者と出会いました。

私を誘ってくれた友人は、私がマリアを大好きなのを知っていて、当時はプロテスタント的な考え方で宣教していた伝道者(この頃には既にカトリシズムを色々な場所で学んでいたようですが)に、「しゅあるくと話す時にマリアを否定しないであげて」と取り次いでくれていたようです。
友人の忠告を聞いて、伝道者は私に聖書を語る時にマリアを否定することはしないでいてくれました。

それは、私にとって大きな決定打でした。

私が寂しかった幼少期に母親のように慕っていたマリアを否定されていたら、私の信仰は躓いて洗礼まで到達していたか分かりません。
つまり、救われるかどうかの分岐点がマリア崇敬だったのです。

礼拝に通っていく内に、ところどころでマリアが母である前に信仰者としてダメダメだったこともあったのを説教で教えられて、私は何も考えずに「そういうこともあったのかぁ」と思いながら、聞いていました。

そして、キリスト教の中心はマリアではなく、十字架の死と復活を通ったイエス・キリストであることも知りました。
キリスト者としては当たり前に知っていることですが、私の中の「赤ちゃんイエス様」のイメージが崩れて、「大人のイエス様が人間を愛していた」ことを初めて知ったのです。

しかし同時に、マリアはキリストの十字架のために神の子をお腹に宿し、福音の一端を担ったのだと教えられ、ダビデの裔のヨセフと婚約したマリアも忘れられてはいけない存在だと学びました。

まず、マリアと出会い、友人が伝道者と出会わせてくれて、伝道者がキリストを教えてくれたのです。

人生の出来事は点のように思えても、実は線で繋がっているのです。

そこから私の目はマリアから、主イエス・キリストに移っていきました。

このようなことがあったので、私にとってマリア崇敬を頭から否定することは、「己の救いの原点」を否定することになってしまうのです。

見えないものを信じる信仰というのは、キリスト教の諸教派の誰しもが学んでいることだと思います。
だからこそ、マリアや天に上げられた聖徒たちが、救霊のために主に向かって、今も祈っていると考えるのは聖書と何の矛盾もないと私は堅く信じています。


聖書のみことば


よくプロテスタントの方々がマリア崇敬を否定する時に使うみことばがあります。

"神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。"

テモテへの手紙 第一 2章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

確かに、神との仲介者はイエス・キリストで、マリアへの崇敬が行き過ぎてキリストよりも上になってしまうのは良くないことだと思います。

このみことばには注目せねばならない部分があります。そこを太字で示しました。
何かと言うと、仲介者イエス・キリストは神の御子としてではなく、人としてのイエス・キリストが神と人との仲介者となっているのです。

そして、キリストが人性をお取りになられたのは、マリアを通してです。
人であるマリアの胎にキリストが聖霊によって宿り、完全な人としてお生まれになりました。

神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。

カルケドン信条より

なぜキリストが、神の御子としてではなく、人として神の前でとりなしておられるのか、私は理由を考えました。これは単なる私の考察です。

少し説明が難しいのですが、三位一体の教理により、キリストは人であると同時に神であるのです。

5.しかし、父、子、聖霊の神性は全く一つであり、栄光は等しく、尊厳は共に永遠である。

アタナシオス信条より

神であるキリストだからこそ、十字架にかかることによって、私たちの罪の贖いとなられました。これは確固たる事実であり、覆しようがありません。
人が十字架にかかるだけでは、ただ「のろわれた者」として死ぬだけなのです。

"ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、
その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。"

申命記 21章22~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神であるキリストは受肉されることにより、人性では「父(なる神)よりも劣る」存在となり、神性においては「父と同じ」存在となったのです。

32.神性については父と等しく、人性については父に劣る。

アタナシオス信条より

逆説的な考え方ですが父と同じ神だから、キリストは人としての姿を取らないと、父なる神と人との仲介者になれなかったのではないかと私は思います。
キリストが人としてお生まれになったからこそ、この御方は「人に同情でき、人のために苦しむことができたのです」。
そして、そのキリストを受肉したのはマリアだけです。

"私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。"

ヘブル人への手紙 4章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

"まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。"

イザヤ書 53章4~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

イザヤ書の引用箇所が主のことを指し示しているのは言うまでもありませんが、ヘブル書のこの箇所の「私たちと同じように試みにあわれたのです」という文章に注目していただくと考えることができますが、キリストは「私たちと同じように『人として』試みにあわれた」のです。分かりやすいのは、荒野での試みでしょう。

"それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」"

マタイの福音書 4章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神の御子としてのキリストは、悪魔から試みられる必要はなかったはずです。
しかし、キリストは「人として」試みられたのです。

ですから、「人として」のキリストがその「神性」を以て、神との仲介者となられたと私は考えます。

そして、キリストが人としてお生まれになるために選ばれた、ダビデの末裔の婚約者であり、神の母となったマリアが尊い存在なのです。

では、マリアのことを最後に書きます。


信仰の先輩者マリア


マリアは神の母である前に、神を信じる信仰者でした。

"マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。"

ルカの福音書 1章38節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

マリアの「あなたのおことばどおり、この身になりますように」という信仰から、キリストの受肉が始まりました。
マリアは神を信じるユダヤ人でした。

そして、言わずもがなですが、キリストの公生涯において、「マリアの不信仰」は聖書に書かれています。そこは引用箇所が多いので、引用は一箇所だけにします。

"ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」"

ヨハネの福音書 2章3~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この言葉の後、マリアが行動を改めたことが書かれていますが、今回の話とは関係ないので省きます。

キリストの昇天後、マリアは使徒たちと共に祈っていました。

"彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。"

使徒の働き 1章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

このみことばからマリアは聖書から姿を消します。最後のマリアに対する記述はキリストを信じる信仰者マリアの姿でした。

マリアはキリストを産んだイメージが大きいと思いますが、同時に、使徒たちと祈っていた私たちの信仰の先輩者です。

私たちは信仰の先輩者を貶すことはあるでしょうか。
マリアは私たちの信仰の先輩者なのです。

マリア崇敬は迷信ではなく、神の母マリアを敬うことと、信仰者マリアを尊敬することも含まれています。
だからこそ、初代教会からの宝を受け継いでいるカトリック教会はマリアを崇敬するのです。

ここまで長く書くつもりはありませんが、マリア崇敬を自分の救われた経緯から色んな視点で書こうとすると長くなりました。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

プロテスタントの批判になってしまうことが多いので、次は、プロテスタントから見たカトリックの問題点を書いていこうと思います。

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