2023年7月22日 主日礼拝説教の感想
礼拝の説教音源を何度も聞いていますが、やはり印象的なのは、「病の癒しの祈り」のくだりです。
私たちは神癒そのものを否定したりはしません。
しかし、私の所属教会の伝道者は生まれつき身体障害を持っていて、何度も他のクリスチャンから、「祈らせて」と頼んでもいないのに、癒しの祈りをされたそうな。
でも、今に至るまで、伝道者の身体障害や難病は癒やされていません。
私にはかつて、足の不自由な祖父がいたため、彼に癒しの祈りするのではなく、身体障害のことで、「これするの大変だよね?手伝うよ」と、もしここが障害で使えなかったら大変だろうなと私が思うことと、伝道者の姿を観察して、それらを合わせて伝道者の苦労を予測して、実際に助けました。
すると、伝道者は身体障害のことで自分が必要以上に無理をしていたことに気付かされたみたいです。
伝道者は、健常者と同じように動こうと無意識に思っていたようで、「120%の力で体を動かそうとしていた」と言っていました。
そのことを、伝道者本人が包み隠さず教えてくださいました。
「○○年生きてきて初めて気付いた」と言われた時には、私は「他の人からはそれを教えてもらえなかったのか…」と少し悲しくなりました。
愛の交わりの本質とは本来そのようなものではないでしょうか?
互いに苦しいと思っていること、人と共有すべき大変なことを共に負い合うことこそ、キリスト者が味わうことの出来る、「互いに愛し合うこと」だと思いました。
私自身も精神に障害を持っています。
でも、癒されたくても癒されません。
それを通して気付いたのは、私が病気が癒やされないことで、神に頼ることを覚えたことです。
つまり、病の苦しみが私の信仰を深めたということです。
病気でも信仰を持ち続ける私という存在が証となるように、神様は望んでいるかもしれない。
何年も病気に苦しんで私はそのような境地に達しました。
もし、精神障害が癒やされてしまったら、私は同じ精神障害を抱えた人に寄り添うことが難しくなってしまうと思います。
きっと、病気をたくさん患って苦しんでいても、人の魂のために文章という手段で、福音を宣べ伝えることに力を尽くした三浦綾子さんもそう思っていたのかな?と考えました。
「病が癒されること=信仰」に結びつかないことは聖書が証明しています。
私が与えられた病気、それがもたらす弱さは、神の栄光を表すため、神の恵みが私には十分であることを神様ご自身が教えてくださったのでしょう。
それくらい、私はたくさん神様から愛をいただきました。
ただの人間関係では味わえない神の愛、それを知った私は、世の人に戻ることが考えられなくなりました。
「私が弱い時に、神の栄光が現れる」
このパウロの信仰こそ、病気に苦しむ私の慰めであります。
だから、私はしんどいことを隠して頑張るのをやめました。
伝道者から「柚莉は頑張る必要はない。もっと人に甘えろ」と言われたのもありますが(笑)。
「信仰がないから、病気が癒されない」
この言葉は、病気や障害を持つ人にとって、ナイフを向けるようなものです。
その言葉のナイフを発して、弱い人の胸に突き刺しますか?
そうしたら、その人は死んでしまうでしょう。
つまり、躓きを与えるということです。
私たちキリスト者がすべきことは、「病で寝たきりでもいい。そんなあなたをキリストは特別に愛している」と伝え続けることではないでしょうか。
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