2024年8月25日 主日礼拝説教(ヘブル書5章11節)の感想
今日はヘブル書5章11-14節、特に11節からの講解説教でした。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。
説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。
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Stand.fm
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本日語られたヘブル書5章11節の本文を引用します。
この箇所を普通に読むと、「キリスト(ヘブル書5章8-10節参照)にメルキゼデクを重ね合わせて説明したいけれども、あなたがたは聞くことに鈍いから、難しいですね」と、一見厳しいメッセージのように思えます。
しかしながら、私たちは神の教えを聞くのに「①愚か」であり、「②反逆心を持つ」のです。
これらを的確に表したみことばがあります。
①愚かさ
②反逆心
教会でキリスト者が心の中で「クソッタレ」と思いながら、キリスト教用語が身について、表面的に綺麗な言葉を使っていくことがあると聞きました。
まさしく、SNSでキリスト者が他の兄弟姉妹たちに暴言を吐いている姿が思い浮かびます。
そして私も、表では良い顔をしながら、内心不満を抱えていることを主から見られているような気がします。
話を続けます。
ヘブル書5章11節だけを読むと、まるで、ヘブル書の著者が「あなたがたには、メルキゼデクについて話すのは困難だから諦めます」と言われているように感じる方もいるかもしれないと語られました。
確かに、この箇所だけを読むと、私たちの愚かさが断罪されているように思えます。
ですが、そこからヘブル書6章13節〜10章後半に至るまで、「キリスト大祭司メルキゼデク論」が繰り広げられ、著者がキリストの大祭司性と、メルキゼデクとの繋がりを私たちにも分かるように語っています。
著者は私たち読者に理解してもらいたいと語ることを諦めていないのです。
それで、私はヘブル書の著者から見捨てられていないのだと、この箇所からは断罪ではなく、励ましを感じました。
長くなりましたので、もう一度、説教箇所を引用します。
ここの太字で強調した「鈍い」という言葉は、「ノースロス」というギリシャ語で、意味は「病気のゆえに、スローモーション(緩慢)である・薄鈍(うすのろ)である」と訳せます。
病気にかかった時のように、私たちは神の言葉を聞くことに、福音理解においてスローモーションになっているのです。
「病気のゆえに薄鈍である」というのは、比喩的表現です。
これは、別にヘブル書の著者が読者に向けて人格攻撃をしているのではなく、読者たちがキリストに向かい、福音を聞くことを妨げている病気を主に癒されることを念頭に置いて語られていると考えられます。
主に癒すことの出来ないものはありません。
だからこそ、私たちはこの言葉に励まされてキリストの元に行くべきです。
さて、私は今日、夏風邪を引いて喉がやられていました。
頭がぼーっとして、体もだるく、礼拝中に緩慢になっていたことを考えると、ヘブル書の本文に出てくる「鈍い」という言葉がどうも印象に残りました。
私は心身共に病気を抱えていて、本当にその病気がある日、みことばを聞くことを妨げてしまいます。
病気の症状は、見事に私を不信仰に転落させてしまうのです。
だから私は、礼拝や聖書講解の日のために体調管理に人一倍気を遣わなければなりません。
体調が悪いから礼拝に参加しないというのは、私の所属教会においては考えにありません。
むしろ、しんどいからこそ、主イエス・キリストに頼っていこうねと、癒しを求めていこうねと励まし合っていくのが、私たちの教会共同体の働きです。
この説教を聞いた人たちも何かしらの、「みことばを聞くことの場所塞ぎとなっている病気のようなもの」があるかもしれません。
神の言葉の解き明かしを聞く人たちがますます、キリストに向かっていくことが出来るようにお祈りいたします。