キリスト者の二項対立的思考
とある場所で聖書の理解を書き記している方がおられました。
私はそれに少し引っかかるところがあり、その人の書いている聖書理解に対して反論が思い浮かびました。
詳細を書いていきます。
まず、この聖書箇所が引用されていました。
これは、ペテロが神様に夢の中で見せられた幻で語られた言葉です。
その方はこの箇所を引用して、キリストの血で罪を贖われた私たちが「自分は罪人だ」と言ったら、神様はペテロに語ったように私たちにも「神がきよいとしたものを、きよくないと言ってはならない」と言うのではないか?
という疑問を呈し、結論として、自分を「罪人だ」と呼ぶのは間違いで、「聖徒」や「義人」と呼ぶべきだと言っていました。
それに対する私の反論として、聖書の箇所をあげていきます。
これらを見た時に、パウロはローマ書で「義人はいない」という言葉を引用し、テモテ書では、自身を「罪人のかしら」と称しました。
つまり、パウロの福音理解というのは、「救われていても、人は罪人である」といったものだと分かります。
そして、使徒の働きに書かれているこのペテロの幻の箇所で神様が語っているのは、罪人かそうでないか、ではなく、ユダヤ人だけではなく、「異邦人も救いに定められているのだ」という解釈なのです。
他にも解釈はあるかもしれませんが、文脈を読むと、コルネリウスという異邦人がペテロの元を訪れて話を聞くように神様から幻を見せられているのです。
というわけで、前提として、使徒の働き10章15節の箇所は、ペテロの見た幻は異邦人の救いについて語られているというものなのです。
そのようにして、私は聖書の箇所を探していた時に、また引っかかったことがありました。
それは、聖書に「イエス・キリストによって私たちは義人とされた」という箇所があり、「義人はいない」というのと、自分の中で矛盾してしまったのです。
この箇所を見て私は「えー、『多くの人(キリスト者たち)が義人とされる』って書いてある」と思いました。
じゃあ、私は罪人じゃないのか?ともちろん考えました。
そして、行き着いた答えは、「罪人かどうか」と私自身が白黒つけようとしている。
つまり、物事を二項対立的に考えてしまっていることに気付いたのです。
これは、キリスト者が陥りやすい罠かもしれません。
このような時に「白か黒か」ではなく、「どっちも」という考え方を取ることも出来るのです。
実際に私たちキリスト者は、イエス様を信じて洗礼を受けたから罪を犯さなくなるわけではありません。
私たちの肉は、キリストの血で贖われても働くのです。
パウロはこのように葛藤しています。
このパウロの証言を基として考えた時に、私たちは「善を行うことの出来ない罪人」であり、「キリストの信仰に与る罪を赦された義人」だと認識することが出来るのです。
だから、私たちの中には複数の要素が入っていると考えると、矛盾なく答えを出すことが出来るのです。
「どっちか」ではなく、「どっちも」と考えてみると、自ずと腑に落ちるのです。
私は御言葉が心にストンと入りました。
ですから、私は聖書の読み方として、白黒つけて、2つの要素や言葉を対立させるのではなく、様々な自分の出せる聖書の言葉を全て出した上で、どのように一見矛盾しているような聖書箇所を福音で一つにするかを考えていくことをオススメします。
難しい読み方かもしれませんが、多面的に、上下左右から物を見るように、色んな視点から聖書を読んでいくと、聖書理解が深まるかもしれません。
追記:これらの二項対立的な考え方に対する捉え方は教会で教わったものです。改めて考え方の変更を学ばさせられました。
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