![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106452554/rectangle_large_type_2_2251fd90805500f4556b24170cfa9679.png?width=800)
聖書って矛盾してる?
聖書を読んでいると、時々「ん?これ、別の箇所では正反対のことを書いてるんじゃないか?」と感じることはありませんか?
私はこれは矛盾しているんじゃないかと、聖書の意味が分からなくなったところがあったので、そこから書いていこうと思います。
エペソ人への手紙とヤコブの手紙
題名の書簡は新約聖書に収録されていて、それぞれ、エペソ人への手紙はパウロが、ヤコブの手紙は主の兄弟ヤコブが書いたものとされています。
では、この2つの書簡から、一見矛盾しているように見えるみことばを抽出してみましょう。
[エペソ人への手紙 2:8,9]
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
[ヤコブの手紙 2:17]
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
この2つのみことばを読むと、「ん?」と思うことがあると思います。
エペソ書には、「信仰は行いによるのではない」と書かれているのに、ヤコブ書では「信仰も行いが伴わないなら、死んだようなもの」と書かれているではないか!
と、思いますよね。
私は最初にここを読んだ時に意味が分かりませんでした。
しかし、この2つのみことばを繋ぐ唯一の存在があります。
それが、イエス・キリストです。
これはどういう意味かというと、この2つのみことばで書かれている「行い」というのをどのように受け止めるかということです。
「行い」には2種類あります。
「自分が実行する行い」と「神が備えられた行い」です。
自分の行いなら分かる。
でも、神が備えられた行いとは何ぞ?と思った時に、この言葉は別の言葉に言い換えることが出来ます。
それは、「聖霊に導かれた行い」や「主が用意された行い」という言葉です。
私たちキリスト者は神に、聖霊に導かれた!と言う時があると思います。
この、自分ではない、神が「これをせよ」と示された行いこそが「神が備えられた行い」ということなのです。
詩篇にはこのように書かれています。
[詩篇 103:21]
主をほめたたえよ 主のすべての軍勢よ。
主のみこころを行い 主に仕える者たちよ。
ここで書かれている「主のみこころを行い」...
この主イエス・キリストが望んでいる御心こそが「神が備えられた行い」であります。
そして、エペソ書に書かれている恵み、神の賜物による信仰は主イエス・キリストが与えられたものなのです。
聖書はキリストによって一つとなる
ですから、この2つのみことばのかすがいとなるのが、イエス・キリストであるのです。
聖書の矛盾しているように思える箇所はイエス・キリストによって一つの福音の言葉にされます。
なぜ、イエス様によって聖書が結ばれるのか?
それは、聖書がキリストご自身を指し示しているからです。
私の印象に残っているみことばを紹介しましょう。
[イザヤ書 53:4,5]
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
これは、キリストの十字架の死を指し示した言葉です。
預言者の言葉だけではなく、イサクがささげ物にされようとなった時など、色々な聖書の言葉がキリストを指し示し、聖書そのものがキリストを証しているのです。
[ヨハネの福音書 1:1,14]
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
聖書の言葉をイエス・キリストを仲介者として読む時、矛盾しているように見える聖書の箇所は結びつけられ、私たちを救う福音の言葉へと繋がっていくのです。
こうして読んでいくと、聖書を読むことが楽しくなります。
律法や、怖いとか、矛盾してるかなと思ってしまうみことばが、また違う視点で読めるようになっていくのではないでしょうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?