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私と教会と献金

後ほどまとめようと思いますが、昨日のディボーションメッセージで教会の組織制度の話が出ていました。
その中で献金の話が出ていて、以前、献金が出来なくなる環境になるまでに私がしてきた教会に対する献金のことを思い出しました。
今回はそのことを書こうと思います。


教会の献金に関する方針


私の所属教会である、竪琴音色キリスト教会の献金の方針や私が教会で受けたことがあります。

それらを一言で表すと、「私が教会にではなく、教会が私に献金した」です。

これだけだと、どういう意味か分からないと思います。

このことを説明するならば、まず、教会の牧師は私や教会の他の兄弟姉妹に献金を求めることはありませんでした。
それどころか、献金の「け」の字も持ち出すことがありませんでした。
ですから、私は恥ずかしながら献金のことをキリスト者になってから一年間くらい知りませんでした。
ある時、説教でその言葉を聞いて初めて知り、信徒が教会にお金を出すということにびっくりしました。

そして、私が洗礼を受けた時に遡りますが、伝道者に洗礼を授けられる時、初対面だったのですが、聖書とたくさんの信仰書をプレゼントされました。
私はあまり人からプレゼントをもらうことがなかったので、とても嬉しかったし、こんなにもらっていいのかと思いました。

この二つを合わせると伝道者からのプレゼントと教会から求められない献金ということになりますが、教会が私に多額のお金を費やしていたことになります。

私はそのことに対する感謝の気持ちをずっと持っていました。

ですから、洗礼を受けた時に、竪琴音色キリスト教会か地域教会に通うか、どちらが良いかと伝道者に聞かれた時に、すかさず竪琴音色キリスト教会が良いと答えました。

そして、私が受けたことは他の人も受けていたことでした。
ある人は古文が好きなので、公用聖書や信仰書の他に文語訳聖書ももらって喜んだと聞きました。

これが自分にとっての当たり前なので、地域教会では席上献金という献金の時間があることもあると聞いて驚きました。

2023年11月26日追記

実際に、地域教会に一キリスト者として礼拝に参加した時、席上献金の時間があってピアノの音色と共に献金箱が回ってくることに驚き、献金の同調圧力や、少額しか献金出来ない後ろめたさのようなものを感じました(貧しいため)。
だから、より教会は貧しい人から事情も聞かずにお金を取ってはいけないと強く感じました。

一方で、ある教会では席上献金がなく、教会の入り口の横に献金箱が置かれていて、献金出来る人がそっと献金を出来る体制になっていました。
これだと、貧しい人も臆面なく礼拝に参加出来るし、礼拝で苦しい思いをしなくなる。その点で良い教会だと思いました。

ここで、教派名を敢えて出さなかったのは、そのようなものに縛られず、キリスト教会は困窮する人たちに罪意識を持たせて困らせるべきではない、躓かせるべきではない、という教会で何度も教わった基本理念からです。


私が捧げたもの


献金の話を初めて聞いた後、私は教会に感謝していたので、牧師に「教会にお礼したいから、献金したいからどうすればいいのか?」と聞きました。
そして、献金について教えてもらいました。

その後、初めて献金を送りました。
それから次の日に、牧師から献金が届いたよ!と連絡が来たと共に、感謝の言葉と献金を何に使うか教えてもらえたと記憶しています。
そのような交わりを通して私はとても嬉しかったです。

この嬉しい体験を味わったら、献金をまたしたいと思うようになりました。
牧師からは、捧げる時は最上のものをという話を聞いていたので、献金を新券に両替してまた献金しました(初めに献金した時には出来ていなかったことです)。
その習慣は、献金が出来なくなるまで続きました。
新券に両替するのは簡単なことではありませんでした。手間のかかるものでしたが、献金の喜び、教会を支えることの喜びと比べたら、全く大したものではなかったのです。

ところで、教会は献金を求めないので、牧師は困窮していました。
連絡している中で、私は牧師がご飯を食べられていないことを知り、「それならば」と思って、栄養のあるトマトジュースやレトルト食品をAmazonで注文して送っていました。

ある時は、スーパーで自分で買って、配達業者の集荷場まで行って送ることもありました。
雨の日の中、2本の1000mlトマトジュースと食料を入れた重いダンボールを傘をさしながら片手で持って、もう片方で支えて集荷場に持っていったこともあります。ダンボールが重くて腕が取れそうで辛かったし、翌日には筋肉痛になりました。

なぜそこまでしたかというと、牧師が食事を全然食べられていなくてフラフラだということを聞いたからです。
いつもしていたことですが、集荷場に荷物を送る時、翌日の午前に荷物が届くようにして送りました。
そして、その雨の日の翌日の時は、牧師から連絡が来て、「栄養不足で倒れて這うような状態になっていたら荷物が届いて、トマトジュースを飲んで動けるようになった」と言ってもらえました。

私は心から牧師のことを心配していたので、彼が倒れなかったことに安堵しました。

献金や献品を通して私が変えられたことがあります。それは、お金の収入日が来たらあれを買おう、これを買おうとしてワクワクしながらAmazonのカートに色々入れるのですが、いざ収入日になると、全く欲がなくなるのです。
つまり、全て後でいいやと思って、「後で買う」とカートから出して、最低限のものと、献品するものしか買わなくなったのです。
そのため、私の使っているAmazonの「後で買う」となっている商品の種類は数百種類にまでのぼります。

そしてもう一つ、牧師は一人暮らしだったので、手作りのおかずを食べると喜んでくれるかもしれないと思い、親からおかずの送り方について聞いて、冷凍で送るのが良いのではと教えてもらい、冷凍で送れるおかずのレシピ本を買って、自費で材料を揃えて家族に振る舞う分と、牧師に送る分を取り置いておかずを作ることもありました。
「これは送るものだから、絶対に食べたらダメ!」と言って、皿の色を変えて取り置いて、家族に何度も注意していたことを思い出します。家族に負担をかけてでも、私は教会と牧師を愛していました。

そのうち、牧師がたこ焼きが好きと聞いたので、冷凍おかずとたこ焼きを送るようになりました。
私は当時、たこ焼きを作ったことがなかったので、上手く焼けず、それを見た未信者の母親が「不器用ねぇ。仕方ないから手伝ってあげる」と言って、嫌そうな言い方をしながら表情は嬉しそうにして、毎回たこ焼きを作る時に手伝ってくれました。
母が世話好きというのもありますが、今思うと、私が熱心に物事に取り組んでいるのが珍しかったのかもしれません。未信者の母を動かして世話を焼いてもらうくらい、神の家族としての愛は無気力な私を変えていったのです。

このように、私は献金と献品をかかさず送るようになっていました。
気付いたら、什一献金なんて簡単に超えるほど教会に捧げていました。


福音が語られるために


献金の他に私は牧師に、本を何回もプレゼントしていました。
強いられてではなく、牧師に買いたいという思いで買っていました。

特に、私は事務処理や通販、オークションアプリの使い方に慣れていたので、牧師からこれがあれば助かるという本を聞いて、希少本を買ったりしていました。

親からお小遣いを前借りしたり、とにかく献金・献品のために色々とやりくりしていました。

なぜ、そこまでやるのかと言うと、この私の「本を買うか買わないか」で、説教が変わってくるからです。
買った本はもちろん、牧師自身の福音理解と、牧師が私たちのような教会の説教を聞く人たちに語るための霊的な糧になるのです。

福音が語られるために、もっとすごい説教を聞きたいと、私は信仰書や神学書を贈っていたのです。
もちろん、そのプレゼントには、洗礼の時に私がプレゼントをもらったことの感謝も含まれています。


献金をしたら偉いのか


既存の教会では献金額が多い人ほど役員に選ばれやすいということを聞いたことがありますが、それとは別の話をします。

教会の什一献金について話題になる時があります。
いわば、什一献金をするかどうか。

私は個人の考えと体験として、献金は当たり前です。
什一献金を毎月したって、偉ぶれるわけではないし、すごいのか?誇れるのか?
疑問でいっぱいです。

むしろ、私はこの程度しか献金出来ないとか、本を買って献品したいのに出来ないとか、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

毎月献金してお金が余るなら、もっと捧げるべきです。
神様は絶対養ってくださると本気で信じているならば、捧げられるはずです。

私がこのように言うのも、自分自身が感謝でいっぱいで、教会を支えたいのに、自分の力では支えきれなかった。
無力感を味わされたからです。

献金をしたら偉いのか?
これは違います。
むしろ、キリスト者は献金を「捧げるに相応しくない者が捧げさせていただく」者なのです。
だから、献金してる人が献金していない人を裁く権利はないのです。
それならば、もっと自分が奉仕しましょう。
献金や献品で教会を支える者になりましょう。

何のために自分が働いて収入を得て献金するのか、それは神に感謝して、神が遣わした献身者を支えるためです。
誇りなど、どこに入れられましょうか。

什一献金の正当性について、マラキ書3章10節が引用されていて、初めて知ったので驚きました。
ですが、この聖言を引用して献金を強要すべきではありません。
神の喜ぶものは義務的だったり、習慣的な献金ではありません。

[詩篇 51:16,17]

 まことに 私が供えても
 あなたはいけにえを喜ばれず
 全焼のささげ物を望まれません。
 神へのいけにえは 砕かれた霊。
 打たれ 砕かれた心。
 神よ あなたはそれを蔑まれません。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ルカの福音書 10:38,39,40,41,42]

 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

なお、生活保護を受けている方は、保護費は収入ではないため、基本的に献金対象として見られてはいけません。
ですが、ケースバイケースとして、はなから献金を出来ないと宣言して、甘い蜜だけを吸おうとする人がいれば、臨機応変に対応すべきです。


什一献金は何か


さて、前のトピックとは全く違うことを書きますが、什一献金とは、旧約聖書の律法です。
旧約聖書の律法は何か?
キリストにおいて、成就されたものです。

[マタイの福音書 5:17]

 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

キリストが十字架でその身を捧げられたことを思い出しましょう。

[へブル人への手紙 7:27,28]

イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。
律法は、弱さを持つ人間たちを大祭司に立てますが、律法の後から来た誓いのみことばは、永遠に完全な者とされた御子を立てるのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

だから、本来私たちキリスト者は十分の一という律法ののろいから解放されているのです。
それを、必ず十分の一捧げなければいけないというのは、律法に戻る行為なのです。

キリストから十字架の恩恵を受け取れば良いのです。
そうしたら、聖霊がどのように神への感謝を示せば良いのかを教えてくださいます。

自分の信仰の程度に合わせて捧げていくのです。
ですから、使徒バルナバも十分の一どころか、畑を捧げていたのです。

全てにおいて従っていくということです。

マラキ書をキリストの目で読むなら、私たちにキリストの十字架の溢れるばかりの祝福が注がれて、私たちが聖霊に従っていくかを神様が試すのです。

[使徒の働き 4:36,37]

 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

教会で叱られた小話


こうして教会に捧げていたのですが、その中で私がこっぴどく怒られた話があります。
それは私が、求道者よりも献品を優先したことです。

その日はとある求道者と話す予定があったのですが、私は私の予定管理ミスでたこ焼きを作ろうと考えていた日とバッティングし、結果、たこ焼き作りをして献品することを優先させようとしました。

しかし、それは伝道を疎かにすることでもありました。
牧師から求道者と話せるチャンスなのに、優先順位が違うんじゃないかと言われ、私が頑なに言うことを聞かなかったので、怒られました。

結局、求道者と話す機会は潰れ、たこ焼きもその日は作りませんでした。
私は自分のやったことの愚かさに気付き、申し訳なさでいっぱいでした。
特に求道者の方は牧師と私とで話す機会を楽しみにしていたからです。

求道者の方に「話を通したから謝ってきなさい」と牧師から言われ、私は求道者に謝罪のメッセージを送ると、その方は「全然大丈夫だよ!」と言ってくれました。
その方はまだ洗礼を受けていないので、やきもきする気持ちはありますが、今でもその方と教会との関係は続いていて、ありがたいことに求道者の方は私のことも気にしてくださっていると牧師から聞きました。

私たちの教会では、献金や献品よりも福音宣教、伝道の方が大切なのです。
人に福音を伝えるチャンスは一度きりかもしれない。
私は牧師と共に活動している内に、それを学びました。
一度私たちの礼拝に来て、もう来なくなる人なんて普通にいます。
そのような人にもキリストの十字架の言葉が届いてほしい。
これは、教会の願いなのです。


教会が好き


私が教会にそこまでするのは感謝の気持ちと共に、教会に対して誠実さや感謝を行動で示したいという思いからきたものでした。

このようなことをしていましたが、やはり自分の献金は取るに足りないものだったとか、もっと自分に力があればと思っていました。
献金をしても、教会を支えきれないことに己の無力さを感じていたのです。

そのこともあって、私は
「信徒は献金をして当たり前だと思っている教会」や、
「献金を不特定多数から集める牧師」とか、
「牧師に『献金が足りないなら世で働け』と言って自分の足りなさを恥じない信徒」が苦手です。

私は教会からたくさん受けました。
私も教会に力不足ながら、出来る以上のことを捧げさせていただいたつもりです。
それでも、教会を支えきることは出来ませんでした。

ですから、私は福音を語る人がそれによって養われることを願っています。

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