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マリア崇敬④ ーキリストの十字架の証言者ー


十字架を見上げた母マリア


主イエス・キリストが十字架にかかられた姿を見た弟子たち(使徒と女性たち)は聖書に書かれています。
その中で、聖母マリアが登場するのが、ヨハネの福音書19章の十字架の箇所です。

[ヨハネの福音書 19:25]

イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

イエス様の十字架の側には聖母マリアが立っていました。
そして、イエス様が「完了した」と言って、頭を垂れて父なる神様に霊をお渡しになるまで、ずっと愛する息子イエスの苦しみを見ていました。

これが聖母の胸を最も深く貫いた剣でした。

[ルカの福音書 2:34,35]

シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

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そうして、マリアは悲しみ、傷みました。
聖母の悲しみはチャプレットを用いて、「七つの悲しみの聖母」として祈ることが出来ます。

こうして、聖母マリアはキリストの十字架を目撃した信仰者の一人になったのです。
マリアは決して、キリストと無関係な方ではありません。


弟子たちとマリア(女性たち)の罪


聖書を読む際に、気を付けなければならないことは、聖書のストーリー、御言葉の前後の文脈、登場人物の他に、行間を読む作業も必要です。

キリストが祭司長たち、律法学者たちに捕らえられた時、弟子たちはイエス様を見捨てました。
唯一、イエス様が裁判を受けたところまでついてきたペテロもあまりの恐ろしさに逃げました。

[マタイの福音書 26:56,69,70,71,72,73,74,75]

しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。
 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。

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さて、イエス様が十字架の道程を行く時、弟子たちは逃げて、女たちはどうしていたかと言うと、嘆き悲しみながらついていきました。

[ルカの福音書 23:27,28]

 民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。
イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。

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この中にマリアがいたかどうかは別にして、女たちはキリストの十字架までついて行きました。
しかし、キリストを助けることはしませんでした。
女性たちは十字架についていくほど、勇気があるというのではなく、十字架のイエス様を助けることは全く出来なかったのです。

だから、弟子たちよりも女性が優っているというのではなく、皆がイエス様の磔刑に手も足も出なかったというのが、十字架のストーリーです。

女性だけがついてきたという文章だけを読んだら、弟子たちと女性たちはキリストを命を懸けて守らなかった点において、同罪なのです。


マリアの不信仰


私はマリア様を悪く言いたいわけではありません。
ですが、マリア様の現実を見た上で、私は聖母マリアを母として愛している確信があるからこそ、このようにマリアの失敗も書きたいのです。

マリアはイエス様を産む前、つまりその時のユダヤ人の結婚適齢期の10代の時は、とても熱心な信仰者でした。
「私は主のはしためです。御心がなりますように」と天使ガブリエルの突然のお告げが来ても、そのような応答が出来ていました。

そして、イエス様が12歳になられた時、少し主の母マリアではなく、ただの母マリアとしての姿を見せますが、最後に信仰が垣間見られます。

[ルカの福音書 2:48,49,50,51]

両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。

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イエス様が宮に留まって、3日後にヨセフとマリアに発見された時には既に、イエス様は天の父なる神様を父としていました。
そのことはヨセフとマリアには理解出来ませんでしたが、注目出来るところは、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」という言葉でしょうか。
息子イエスの行動や言葉を心に留めておくほどの信仰があったのです。

イエス様の宣教が始まった頃、イエス様が30代なので、マリアは必然40代になるのですが、お告げから30年が経ったその時は不信仰の人でした。

①カナの婚礼
カナの婚礼では、ぶどう酒が無くなった時に、イエス様に奇跡を起こすようにせき立てるようなマリアの様子が見られます。

[ヨハネの福音書 2:3,4,5]

ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

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マリアが神であるイエス・キリストにあたかもぶどう酒を用意するように、命令するような形の言葉を使ってしまったため、イエス様からは「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」と突っぱねられました。

ですが、前回の記事「取り次ぎの母」でも取り上げましたが、この時もマリアは、イエス様の言うことを聞くように給仕の者たちに話すという、取り次ぎをしました。

もう一つのマリアの失敗は、イエス様の説教を妨害したこと、でした。

[マタイの福音書 12:46,47,48,49,50]

 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。
イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。
それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

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マリアとイエス様の兄弟たちがイエス様を呼んだ時、イエス様はカナの婚礼の時と同じように突っぱねました。
その上で、イエス様の家族が神の御心を行う人だと言いました。

しかしながら、聖書にはマリアたちがどうしたかは書かれていません。

聖書によくあるのは、
・ルツ記のオルパのように、信仰を持たなくて聖書の舞台から降りた人。
・使徒の働きのバルナバのように、物語で焦点が当てられているパウロと喧嘩をして、信仰は捨てていないけれど別離した人。

そして、
・心を入れ替えて、また信仰に戻った人。

というのがあります。

例えば、ヨブ記のヨブの妻がいます。
彼女は全てを失って打たれたヨブに「神を呪って死になさい」と言い放ちました。
それに対してヨブは、「愚かな女が言うようなことを言っている…(以下省略)」と返しています。

その後、ヨブの妻は聖書に出てきません。
ヨブ記の最後のヨブに対する祝福で生まれた子供たちを産んだ女性のことは語られていません。

これは、ただの一説に過ぎませんが、「ヨブの妻は回心してヨブにまたついて行った」と視点を変えると考えることも出来ます。
そして、ヨブの子供は、ヨブと最初に出てきたヨブの妻の可能性もあります。

ですから、イエス様の家族であるマリアと兄弟たちも、イエス様の言葉を受け入れたのではないかと私は思っています。

このように、聖母マリアの不信仰な姿を挙げてみましたが、このような失敗はペテロもしています。
ペテロはイエス様から、「下がれ、サタン」とも言われていますし、「私は死ぬことになっても、イエス様について行きます」と格好よく言いながら、イエス様から、「あなたは3回私を知らないと言う」と預言されて、実際その通りになっています。

ですが、そんなペテロはヨハネの福音書の最後でイエス様から罪を赦されています。
そして、多くの信仰者から愛される存在でもあります。


十字架の証言者マリア


ですが、一つだけマリアが使徒たちと違うところは、使徒ヨハネを除いて、キリストの十字架をその目で見て、キリストの死を見たことです。

だからこそ、マリアは聖母、崇敬(尊敬)され、愛される存在なのです。

私は聖母マリアを母親のように愛している者として、マリアの失敗を認めて、それでもキリストに従ったマリアの御跡をその後ろから歩んでいきたいと思っています。

マリアの失敗が認められないと、私の中ではそれは狂信的、あるいは迷信的な愛情になるではないかと思うのです。
マリアを愛しているからこそ、逆にマリアの失敗さえも、私と重ね合わせて見るのです。

自分の親が間違えていることをしていたとしたら、それを「間違っていない」と、面と向かわずとも言う人はなかなかいないでしょう。
それと同じことだと思っています。

だから、イエス様が十字架の上で初めて、使徒ヨハネにマリアを託すという親孝行をした時には、マリアの心の中では、イエスは「息子」ではなく、「神の子」となり、教会の型となる信仰を持ったのでしょう。

これこそ、十字架の証人になった聖母マリアです。
この方は、イエス様の宣教にずっとついて行き、過ちがあっても、信仰を捨てることなく、最後は使徒の働きで使徒と共に祈る母となったのです。

[使徒の働き 1:14]

彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

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