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一度きりの機会

私の所属教会の伝道者は礼拝説教の時によくこのようなことを言います。
「これが最後の説教になるかもしれない。だから、いつも全力で説教を語っています」と。

人はいつ死ぬか分かりません。それは神の領域です。
そして、私たちの教会は簡単に礼拝に参加できるので、通りすがりで礼拝の説教を聞く人もいます。教会堂を持たない家々の教会でのオンライン礼拝ですので。

そのような環境にいる中で、一つひとつの礼拝が一度きりのものだと私たちの教会では強調されています。

家々でのパン裂き(聖餐式)もそうです。
自分たちも、礼拝に参加している人も、この主の食卓が最後になるかもしれない。

機会は一度だけです。

だから、教会に所属し、礼拝を捧げる私は全力で説教を聞いて、聖餐式には必ず参加し、礼拝の日は聖別するのです。

そして、私たちの礼拝の機会は他の人によって奪われることがあってはなりません。

というのは、私が伝道者の司牧に反抗して、何度も礼拝が潰える可能性があったからです。

その度に私は「礼拝を捧げさせてください」という一心で、自分の主張を一切言わないようにして、司牧に従うことを選んでいます。
そして、罪を悔い改めて礼拝が存続するということがよくありました。

それもあって、礼拝は毎週続いています。

ですが、私は礼拝を捧げたいがために、自分の意見を封じて司牧に従うことを、全く立派なことだと思いませんし、むしろ恥ずべきことだと思っています。

その理由は、私の勝手な行動での司牧に対する反抗は、教会に集う方々の礼拝の機会を奪ってしまうことに繋がるからです。

機会は一度きりです。

だから、私は生きている限り、全力で礼拝し、全力で賛美を捧げ、全力で説教を聞き、全力で聖餐式に与るのです。

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