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キリスト者で障害を持つ人たちへ

今日は少し厳しいメッセージになるかもしれません。
これは、イエス・キリストを信じる障害者(身体・精神・発達・知的)の方へ向けたメッセージです。

尚、キリスト教徒でない方々に向けたものではないので、そのような方々はブラウザバックして読まないようにしてください。それでも内容が気になる方は、フーンと思いながら読んでください。

私は今まで、障害を持つキリスト者の方が「自分はこういう障害があって大変なんだ!だから、周りが配慮しろ!」というようなことを毎日言っている人を見たことがあります。
そのような人を見ていて感じたことは、この発言をしている人は「自分が他者にどのような影響を与えているか」ということを考えようともしていないことでした。

でも、それってキリスト者としておかしくないですか?

私は精神障害者です。
以前の記事で書きましたが、希死念慮がありました。今も症状が悪化すると起こってきます。

その希死念慮は、「生きるのが辛い」というよりも、「私は生きているだけで迷惑者だ。迷惑をかけ続けて生きるくらいなら死んだ方がマシだ」と考えて「死にたい」と思ってしまいます。

だけど、こんな私でも「そこにいるだけでいい」「生きてくれていたらそれでいい」。
そんな言葉をかけられることがあります。
私はその言葉だけでも、本当に慰められます。
このような言葉をかけられた人はいるでしょうか?私はいると信じたいです。
実はキリストを信じる人は皆が聖書を通してキリストからこのように語られています。

[イザヤ書 43:4]

  わたしの目には、あなたは高価で尊い。
  わたしはあなたを愛している。
  だから、わたしは人をあなたの代わりにし、
  国民をあなたのいのちの代わりにする。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

私はこの記事を読んだキリスト者の方々にこの言葉だけは覚えていてほしいのです。
私自身が励まされた言葉でもあります。
神様は私たちを見放される方ではないのです。

ところで、イエス様の教えというのは、「受けるよりも与える方が幸いである」というものでした。
これは障害を持つ人も例外ではありません。

[使徒の働き 20:35]

このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

自分の障害を気遣えない相手に配慮が足りないと責めるのは簡単です。
ですが、私が悪かったと頭を下げて、「あなたの助けがないと私はダメな人間です」と助けを求める方が、何倍も難しいです。

そして、もっと難しいのは、相手が喜んで助けてくれるような人間になることです。

私たちは、誰も彼も罪人です。過ちを簡単に犯してしまう。

これは机上の空論ではなく、私の体験から話しています。

最初は皆、私のことを「大丈夫?」と言って気遣ってくださいます。
でも、私は症状が出たら、見境なく怒ってしまう。
そして、相手と喧嘩になって、相手を潰すほどまでに苦しめてしまうのです。
それからどんな人でも、家族以外は私を見限ってきました。
今、思い返して私は見限られて当然だったなと思います。

自分の障害は配慮されて当然だと考えている人はいませんか?

本当は自分自身が相手を気遣うべきなのです。
相手が自分を助けてくださることをいつも感謝すべきなのです。

私にはそれが出来ません。
これは、私の嘆きの叫びでもあります。

これだけ苦しめられたと、つらつらと辛い体験を書くことは誰にでも出来ます。
だけど皆、辛いのです。特にこんな日本の社会では。

私は全く社会人経験がなく、某飲食店で超短時間でのアルバイト経験しかないので、社会人の方の気持ちは残念ながら全てを理解することは出来ません。

ですが、その短いアルバイトの中でも、同じ時間帯に働く店員さんの中で、数十年その店で働き続けた主婦の方がおられました。

私はその主婦の方と話したくないのに、話しかけられることも多かったし、「卵の割り方すらも分からないのね」とバカにされることや、「この人(私のこと)とは合わないわ」と小声でボソっと言われたことなんかもあります。

そんな経験がありましたが、当時の牧師以外にはその人の愚痴は誰にも言いませんでした。
牧師以外に愚痴を言っても、何の解決にもならないからです。
牧師からは、私の司牧をしていただけるので話していました。
それには、とても支えられましたし感謝しています。

悪口を言ったり、不満をもらすことなんて、簡単なことですが、自分を損なうことです。

だから、こんなに良いことをされたと感謝することを私たちは忘れてはいけないのです。

だからこそ、私は変わらなければなりません。
人を大切に出来る人に、人から喜んで助けられる人に。

私は外では「病気だとは思わなかった」「元気そうに見える」といつも言われます。
最初こそ言われて辛かったのですが、今はそれを恨もうとは思いませんし、第三者からはそう見えるのだなと思います。

元気そうに見える人でも内側では、とても病んでて毎日苦しいかもしれない。

イエス・キリストに祈り頼ることの出来る私たちキリスト者よりも、自分の力で頑張って世を渡っていくしかない未信者の方が実はずっと辛いのです。
それは、私たちが救われる前のことを考えたら分かるはず。

私だけが苦しいのではないと、私は自分に言い聞かせたいです。

このようなことを書きましたが、要約すると、「自分は配慮されて当たり前」とキリスト者は考えるべきではない。という一言につきます。
今、私たちの周りに置かれている人たち、環境、そして神様から生かされていること、全てが感謝されて然るべきものです。

今一度、「受けるよりも与える方が幸いです」という聖言を思い直して、体験しようではありませんか。

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