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大衆にウケるキリスト教か真理を求めるキリスト教か

これから書く一切の文は教会の意見や考え方ではなく、私個人の思いです。
私の所属教会で教えられていることとは関係のないことであるのを但し書きとして、本文の前に書いておきます。

今日とても気になったツイートを見かけました。

実は今週の日曜日、2023年5月28日はキリスト教の記念日で「ペンテコステ」と呼ばれる、使徒たちに聖霊が降った日、教会が初めて誕生した日で、どの教会でも基本的に祝われる記念日なのです。

そのペンテコステを、クリスチャンは忘れがちと言った上で、ネット上で流行っている言葉を使ってそのことを茶化した内容のツイートでした。
このツイート主は以前も礼拝を軽んずるような発言をしていました。

私は記念日にこだわることとは別に、全ての教会で喜ばれる記念日、教会の誕生日を神を信じる人たちが未信者の人たちがたくさん見る中で茶化していいのかと疑問を持ったのです。

そこで私なりのキリスト教に対する思いや、伝道の現実について書いていこうと思います。


大衆ウケするキリスト教で本当に良いのか?


本文を書く前に引用したいみことばがあります。
それを引用して話を進めたいと思います。

[ヨハネの福音書 14:6]

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

後で私自身の体験を織り込んで詳しくお話ししますが、キリスト教は、いや、イエス・キリストご自身は「真理」です。
本当はキリスト教は茶化して遊ぶものではなく、私のような無力な人間、罪人の中の罪人、イエス・キリストにしか頼るものがない人たちに対する、神の愛の言葉が聖書であり、教会で教えられることなのです。

私ごときの者に本来はイエス様は守られる必要はありません。
イエス様が真理だからです。

しかし、伝道という面で先程書いたツイートのことを考えた時、面白い話をしたら確かに未信者の方は親しみを持てるし、そこから教会に行ってみようかなと思う方もおられるだろうと、私は考えています。
しかし、そのペンテコステを大いに茶化したツイートにはキリスト者の人たちも賛同して、少し残念に思えたのも事実です。
キリスト者こそ、そういった面白くキリスト教を伝えるとは違う「キリスト教を茶化して伝えること」を見抜かなければなりません。

先述しましたが、本当はキリスト教会は、「イエス・キリスト以外に救いなし」と告白出来る人たちが集まる場です。

何度も別の記事で書いていると思いましたが、私は友人が紹介してきた牧師がやっている「ゲーム配信」を通して牧師と知り合い、礼拝に参加するようになりました。

最初に教会に行く戸口はどんなものでも構わないと私個人としては思っています。

ですが、当時の私は恋人が出来て浮かれていたり、1ヶ月くらいでその人と別れて病んでいたり、統合失調症の希死念慮に悩まされたり、牧師に毎日相談するくらいひどい状況でした。

私は伝道の現場に立ち会ったことがありました。
その伝道された人は最初はとても神の言葉に感動して泣いていたり、本心からの関わり合いが出来ていたと思います。
ですが、その人は恋人が出来て、その人にゾッコンになり、イエス様からの愛を放り投げて、教会に来なくなりました。
最初は熱心であったにも関わらずです。

ですから、どれだけ良いことを受けても去っていく人はいます。

だから、私は面白半分で教会に通ってもいいことないよと言いたいです。

伝道に関しても、これは言葉を上手く操って伝道出来るものではないのです。
人の魂を救う福音を伝えるために、キリスト教をふざけて伝えるやり方は必要ありません

[コリント人への手紙 第一  1:17]

キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

私はそういった影響力の高いキリスト者のツイートを面白がって、教会に通う人が現れることを神様がどう思われているのか、私には分かりません。

厳しく感じるかもしれませんが、面白おかしいキリスト教は長続きしないと思います。
イエス様やイエス様の弟子たちが歩んできた道は優しいものではありませんでした。

それは、古代から現在に至るまでの殉教されてきた信徒たちからも分かります。
日本でも、江戸時代にキリスト教の迫害はひどくなり、京都と長崎では特にキリシタン(当時のキリスト者の呼び方)はとてもひどい拷問を受けて、何百人も亡くなっています。

それほど、キリスト教には血を流し、流された凄惨な過去があります。

新約聖書に収められている「使徒の働き」でも、使徒ヤコブやステパノの殉教が描かれています。

[使徒の働き 7:58,59,60]

そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

現代のアジア地方の中でも、激しいキリスト教弾圧をしている国はあります。
ただ、イエス・キリストを信じるだけ、それでも苦しみを味わうことがたくさんあるのです。

私が言いたいことを要約すると、「生半可な気持ちでは主イエスを信じる心は続かない」ということです。

次に引用する2つの言葉を読んでください。

[ルカの福音書 17:11,12,13,14,15,16,17,18,19]

 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

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この内容は十人の病気の人がイエス様に直接癒され、信仰を持ってイエス様の元に戻ったのは一人、しかも当時はユダヤ人から軽視されていた異邦人、他国人ということです。

たとえ、イエス様と直に出会った人であっても、信仰を持てる人は少ないのです。

もう一つ、みことばを引用しましょう。

[ローマ人への手紙 1:24]

 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。

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これは何のことを書いているかというと、イエス様を信じた人が、世間一般の価値観に戻り、自分のやりたいことをやった結果、神様は人の自由な意思を尊重されるお方なので、神と離れた道を歩む人をその人の心の欲望へと引き渡した、つまり、神様と違った道を選んだ人たちの望みのままにしたということです。

これは脅しではなく、事実なのですが、この見出しの初めの方に書いた伝道された人が歩んだ道と同じことです。

心がイエス・キリストに向いていないと、必ず信仰はおかしくなり、神様に対して背を向けることになるのです。

様々な人が面白いと思うツイートがあってもいいです。
ですが、そのようなキリスト教では、本当にキリストを求める人は出てくるのか、大衆ウケするキリスト教は良いものであるのか、私には分かりません。


真理を求めるキリスト教


これから語るのは、私を救いに導いてくださった「真理」であるキリスト教です。

私は以前の記事でも書いたように、イエス・キリストを信じる前は、虚無主義者でどうしようもない人間でした。
統合失調症をその頃には患っていて、社会復帰に焦る人間でした。
同時に希死念慮を持っていても、死ぬ苦しみが怖くて死ねなかった人間でした。

そんな私に、イエス様が語られたのは「私はあなたを愛している」という言葉でした。

[マルコの福音書 1:11]

すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

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何の変哲もない言葉ですが、この私の存在が神様から喜ばれているという事実に、私の心に一筋の光が差し込みました。
この言葉は私が信仰を持つきっかけとなった言葉です。

それから、洗礼を受けて礼拝で語られる神の言葉は、気付いたら病気と闘う私にとって支えとなっていました。
そして、イエス様が私が生きることを望んでいると知った時に、私は死のうと考えるのをやめたいと願うようになりました。

これこそが、福音を伝えられた人間の姿です。
この世で生きる辛さが、イエス様と人生を共に歩む喜びとなることです。

私はイエス様に近付くために、リアルで礼拝を捧げるために、関西から教会の本拠地がある関東に移り住みました。
親を捨て、祖父母を捨て、毎日朝昼晩食べられる生活を捨て、物的に満たされた豊かな生活を捨てました。

ある人には私が狂人に見えるかもしれません。
あるいは、ある人には私がすごい人に見えるかもしれません。

[コリント人への手紙 第二 5:13]

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

もう一度言いますが、キリスト教そのものではなく、イエス・キリストその方が真理です。

最初は不純な動機で教会に通っていたとしても、キリストが救い主であると信じて告白出来るほどの信仰を持つことが出来たならば、それは良いことです。

ですが、キリストを信じるか信じないか、白黒つけるよりももっと気を付けなければならないのは、生ぬるい信仰を持つ信徒を生み出してしまうことです。

[ヨハネの黙示録 3:15,16]

 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

冷たいか、熱いか、これは信仰のことを指しています。
神が願うのは、優柔不断な信仰ではなく、堅い信仰です。

私たちが求めるべきは、真理を探究する信仰です。

[ピリピ人への手紙 3:13,14]

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

私たちは真理を知っているようで知っていないのです。
だからこそ、真理を求め続ける信仰が必要なのです。

私はキリストを信じる人たちが、私も含めキリストだけが真実だと、キリスト以外に何も求めないという人になることを願っています。

ですから、キリスト教を面白おかしく伝えてたくさんの人たちにウケるよりも、言葉の知恵によらず、神の言葉で新しく生まれた人たちの中で真理を求める信仰者が増えていくことを望んでいます。


最後に


本当は私はこの記事を書くつもりはありませんでした。
ただの批判になりかねないか?とずっと自分に問うていたからです。

ですが、救われた者として、伝道のあり方、教会の奉仕のあり方について、とても考えさせられたので書きました。

私がTwitter界隈を見てきた感想を書いた記事があります。

ここでも書きましたが、キリスト者としてあり得ないと思うような発言をされる方々がTwitterをはじめたくさんいます。

そのようなキリスト者が生まれるのではなく、私は信仰、希望、愛に燃えた熱い、そして優しいキリスト者が生まれることを望んでいます。

長くなりましたが、読んでくださった方々、私のような者に関わってくださる方々に感謝します。

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