キュビスムのまとめ〜前編〜ピカソ・ブラック時代〜
このnoteは自分の理解を深めるために、いろんな所より情報をかき集めたnoteになります。情報が膨大なので、大事な箇所・興味ある箇所でまとめています。
前編と後編に分かれていますので、興味ある方は後編もご覧ください。今回はキュビスムという一芸術運動についてまとめました。
【キュビスムの始まり?】
キュビスムは20世紀初頭、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。西洋が絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による3次元的な空間表現から脱却し、幾何学的に平面化された形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなす、ルネサンス時代の常識から画家たちを開放しました。
また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって抽象芸術やダダ、シュルレアリスムと至る道も開きました。
キュビスムとは言えば、「ピカソ」や「ブラック」を思うかべる人が多くいますが、その二人だけではありません。
1910年代のアーティストのはしかとも言われるほど、大流行しました。
「アヴィニョンの娘たち」〜1907年 油絵 ニューヨーク近美術館〜
この絵がキュビズムでは最初ではないかと言われましたが、この絵は1907年に制作され、1916年まで公開されておりませんでしたので、キュビズムという言葉が生まれたのは、この作品ではありません。
【キュビスム本当の始まり】
1908年にブラックがカーンワイラー(画商)の画廊で個展を開催しました。
そこに出した作品が以下の作品です。
後に、この作品が誕生した経緯も紹介しますが、4回にわたり数カ月間に及ぶ長期滞在(レスタック)をし制作しました。
「レスタックの高架橋」〜1908年 油絵 ポンピドゥー・センター〜
この個展を見た評論家(ルイ・ヴォークセル)がジルブラスという新聞(11月14日発行)に、「小さなキューブ(立方体)による絵のようだ」明記します。そこから瞬く間にキューブという言葉が広まり、キュビズムという言葉になっていきました。
※ルイヴォークセルは、フォーヴィスムも「あたかも野獣(フォーヴ、fauves)の檻の中にいるようだ」と評したことから命名しています。
【キュビスムの誕生のきっかけ】
モンマルトル(フランスの首都パリで一番高い丘)のアトリエで誕生しました。通称「洗濯船」といいます。
なぜ洗濯船と言われていたかと言うと、当時セーヌ川に今のクリーニング屋さんの船が沢山いて、それと同じように、ボロくて木造で歩くと床が揺れたりすることから、洗濯船と言われるようになりました。
ピカソは洗濯船に住んでおり、若い芸術家も沢山すんでいました。
その様子がわかる絵が以下の絵です。
「アポリネールとその友人たち」(第2ヴァージョン)〜1909年 油絵 ポンピドゥー・センター〜
真ん中がアポリネール(詩人)右の青い女性がローランサン(画家)その間にいるのがピカソ(画家)一番左の女性がガートルード・スタイン(作家・詩人)左から2番目がピカソの当時の彼女のフェルナンドです。
◆影響①ルソー
この時代にピカソがアンリ・ルソーの絵を買ってきて、この絵すごくね?って言い始めます。アンリ・ルソーは独学で絵を書き、自分は天才画家だと信じている人でした。
そして、若干おもしろ半分に1908年にアンリ・ルソーを称える夕べという会を開きます。そこで描かれたのが以下の絵です。
「詩人に霊感を与える詩神」〜1作目 1909年 プーシキン美術館〜
この絵はアポリネールとローランサン夫妻で、アンリ・ルソーはくまなくメジャーなどで測って描きました。ローランサンは華奢で小柄であだ名は子鹿だったため、この絵を見て大激怒しました。
アンリ・ルソーは書き直しました。書き直した絵は以下です。
「詩人に霊感を与える詩神」〜2作目 1909年 バーゼル市立美術館〜
書き直したのは、花の箇所です。
当初はカーネーションを描くつもりだったのにニオイアラセイトウという花を作中に描いてしまったため、当初の予定だったカーネーションを描いたそうです。
◆影響②アフリカ彫刻
この時代フォークロアアート(民族)、ヨーロッパ以外の芸術の情報が沢山入ってきました。
そして、アフリカ彫刻が流行り始めます。
上記のピカソの「アヴィニョンの娘たち」も影響されており、アフリカ彫刻の時代とも言われています。
アフリカやオセアニアの彫像は19世紀まで、醜い偶像や呪物(じゅぶつ)と見倣されることが多く「芸術作品」とは評価されていませんでした。しかし20世紀初頭、キュビスムの美術家たちや評論家周辺にいた美術商たちが熱心に収集し始めました。
その理由は、アフリカ大陸やオセアニア諸島に住まう黒い肌の人々に対する偏見や人種差別、一心境的な価値観に基づく多神教やアニミズム的文化に対する忌避(きひ)が挙げられますが、こうした理由とともに、ギリシアリーマ的な均斉(きんせい)を重視する美的基準や現実の再現的描写を至上命題とし写実性を追求する西洋的な芸術館が支配的だったことが少なからず関係しています。
◆影響③セザンヌ
セザンヌの描くエスタックの絵画にかなり影響を受けたと言われています。
「エスタックの海」〜1878年~79年 油絵 ピカソ美術館〜
セザンヌが好きだった、南フランスの絵です。
1906年にセザンヌが亡くなり、翌年1907年に大回顧展が開かれます。
その大回顧展は、世界中のアーティストに影響を与えました。その中でピカソもセザンヌすごい!となり、影響を受けて「アヴィニョンの娘たち」を描きます。
それまでピカソは青の時代の人でした。そんな中から、いきなり傾向が変わったのは、セザンヌの影響をかなり大きく受けたと言われています。
ピカソの青の時代
自然を単純に幾何学的形態に描く所、遠近法無視で描く所に影響を受けました。別の言葉で言うと、複数の視点から見た絵を1枚の絵にいれちゃう、今までの常識を覆す技法です。これは意図的かはわかりません。
「キューピッドの石膏像のある静物」〜1894年 コートールド美術館 〜
この絵だと、奥のりんごは手前のりんごと同じで遠近法がなかったり、テーブルも凄い角度や大きさ、石像もいろんな角度から見た石像が1枚に描かれています。
元々セザンヌは、絵をそっくりに書くのが苦手でした。そのため質感表現と遠近法が苦手でした。
ある時期から開き直り、そっくりに描く必要なんてなくないか?と思い始め、丸・三角・四角、立体で言えば、球・円錐・円筒、こういうものに分解して再構成していく方が自然の本質を捉えれるんじゃないかと考えました。
ある時、ヴォラールという画商がセザンヌって面白いと評価をし、1895年に個展を開催しました。それが大爆発しました。やっと時代が追いつきました。
その後の1907年開催の、大回顧展で、ブラックはスザンヌの「エスタックの海」を見て、影響を受けてエスタックに行きました。その時に描かれたのが「レスタックの高架橋(エスタック)」です。ブラックなりのセザンヌを描いたんだと思われます。かなり影響を受けたのがわかります。
ピカソも影響を受けており「アヴィニョンの娘たち」も右のお面は、アフリカの彫刻が正面と横顔が組み合わさっていたり、下のりんごや布はセザンヌの影響を受けています。
セザンヌがいなかったら、キュビズムも生まれていなかったかもしれません。だからセザンヌは現代美術の父と言われています。
そこからピカソとブラックは、もう少し詰めて極めてみないかと、2人の実験が始まります。
【キュビスムを極める】
2人で半分悪ふざけの実験が始まります。そのため、署名なしで絵を沢山描いているので、どっちがどっちの作品かわからない物も多くあります。
そして、3つの時代に分けられます。
セザンヌ的キュビスム
分析的キュビスム
総合的キュビスム
◆セザンヌ的キュビスム
「レスタックの高架橋」〜1908年 油絵 ポンピドゥー・センター〜
◆分析的キュビスム
「肘掛け椅子に座る女性」〜1910年 油絵 ポンピドゥー・センター〜
どんどん細かくなり、そして色が無くなっていきます。
そして、ピカソが分析的キュビスムを展開させる一つの重要な契機となったのは、1909年5月から9月にスペイン滞在中に描かれたバルセロナのホテルの部屋からみた眺望を描いたデッサンを数点残しています。
それらの素描こそが分析的キュビスムの始まりで、ピカソの言葉からいえば「全てはここから始まった。それらはバルセロナのホテルの私の部屋から見たもので、自分がどこまで行けるかを自覚したのは、これらのデッサンに寄ってだった。」それが以下のデッサンです。
「家と棕櫚(しゅろ)」〜1909年4月5月 ピカソ美術館〜
また分析的キュビスムを別の画家が、わかりやすく説明してくれている作品もあります。それは、デイヴィッド・ホックニーの作品です。
彼の作品にブルーギターという版画集があり、これはピカソに捧げられている版画集です。その中にピカソが言いたいキュビスムって、こういうことだよね。というキュビスムを描いたものがあります。
「静物と人物」〜1976年~1977年 東京都現代美術館〜
◆総合的キュビスム
「果物皿とトランプ」〜1913年 ポンピドゥー・センター〜
いろんな手法を総合的に使っているという意味です。そして、コラージュ的なことをやり始めます。
以下のピカソの絵がよく最初のコラージュだ、と言われていますが、もしかするとブラックが最初にやった可能性も否めません。
「縄椅子のある静物」〜1912年 ピカソ美術館〜
この実験を7年間くらい2人は続けます。そして1914年に第一次世界大戦が始まり、そこで終わってしまいます。
ブラックはフランス人のため、徴兵されます。
またこの2人を支えていたカーンワイラー(画商)がドイツ人でドイツへ逃げた所、資産差し押さえになります。そして、600点を超える作品を没収されました。
ピカソからすると、相棒もパトロンもいなくなってしまいます。第一次世界大戦後、絵もあまり売れない状況になってしまい、1918年にピカソはオルガと結婚します。
ロシア貴族の血を引くバレリーナで、ピカソが衣装デザインをしていたバレエに出演し、ピカソと出会います。ピカソは彼女が美人で貴族というのが気に入ったそうです。
そして、この時期のピカソはキュビスムを確立していましたが、オルガからは「私を描くときは、私とわかるように描くこと」と言われていました。
「ソファに座るオルガの肖像」〜1918年 ピカソ美術館〜
この時代のピカソの絵は「新古典主義」といわれる画風で、ギリシャ彫刻のようでした。そしてそれは、とても売れました。それはまた別のお話・・・
ブラックは戦死せずに戻ってきたが、地道に自分のスタイルを確率していくようになります。
キュビスムは確かに、ピカソとブラックから始まりましたが、第一次世界大戦後も沢山の人たちが描き始めました。なので、広めたのはその2人以外の人たちといっても過言ではありません。そちらも非常に重要となります。なのでキュビスムを語るときは、2人だけを語ってもキュビスムの理解は偏ってしまいます。
またキュビスムの影響から、グリット線に色を足すような抽象的な箇所から展開させたのは、モンドリアンです。
この絵の先にモンドリアンの抽象絵画が生まれました。
そして、イブサンローランのデザインにも繋がって、広がっていきました。
ピカソは自身のキュビスム作品を見ながら、髪にいくつもの数字を羅列していました。それは乱数表のようなものであったのかもしれません。
その数字をいくら眺めても、読み解くためのコードを知らないものには、その数字以上の意味を思っていないように見えます。しかし、そのコードを知るものには、何らかの意味の世界が広がっているはずです。
キュビスムとは、伝統的な絵画とは異なる新たなコードに従って描かれた絵画、世界を表すために新たなコード絵画なのだと言っても良いかも知れません。
ここまでがピカソとブラックを中心とした、キュビスムのまとめです。
私が資料として参考にしたのは、
2024年キュビスム展の図録
山田五郎さんのYOUTUBE
wikipedia
から情報を得ていますので、私の主観は一切ありません。
また、後半はピカソとブラック以外のキュビスムのまとめです。
よかったら、このまま読んでいただけると嬉しいです。
つづく。
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