意見を指摘するということ、処世訓

人が、友人が、選択を誤っているとき、よっぽどじゃない限り、指摘しない方がいい。
最近の気づきだ。
もう人に過干渉になりすぎなくなった、人に関心をあまり持たなくなった良い傾向なのかもしれない。少し淡白だ。人に情熱を持って関わらなくなったね、何してようとも直接的には関係ないもんね、と言う自分と、もっと仲間を助けてあげなよ!と言う自分がいる。どちらが正しいとかない。どちらも正しい時期があるから。かつてはみんな私の思い通りに動いて欲しいと言う欲望があった。私が王様であり、私が全て正しいと思っていたから。そんな幼少期を過ごして、私はようやく自分の過ちに気付いた。エゴの押し付けは心地よいものではないのだと。そのような押し付けをして幸せになるのは私だけだと。
ただ、○○しなよ、というより、○○した方が良いよ、と言い方を柔らかく、よっぽどの時だけ伝えるようにしたら人間関係が円滑に回っている。不思議なものだ。
歳を重ねれば重ねるほど人の意見を聞き入れることは少なくなってきて、頑固になっていくものであり、プライドが邪魔をして年下の意見に耳を貸さないこともある。その世代にはその世代の正義があり、正しさがあるから一概には否定できませんよね、という理解までもある。随分と成長したものだ。
自分が理解している物事の初心者が間違った方向に向かっている時、軌道修正をしてあげたくなってしまう。これはエゴの押し付けだ。間違っていると私に認識されている本人は、その間違いを楽しんですらいる可能性もあるのに。

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