不自由すぎるよ自由意志(じゅいし)ちゃん!改訂第3版


はじめに

今回は自由意志の不自由さを、数学的帰納法を用いて証明していこうと思う。具体的には自由意志をA_n、自身を取り巻く環境をB_mという数列として見て、それらに数学的帰納法を用いることによって各項A_i,B_jが不自由であることを示す。

 まず、ここでいう自由意志とは、人間が何かについて意思決定をする際に(意識的であろうと無意識的であろうと)最終的な判断を下しているものであり、何かについての判断をしているかぎり全ての人が持っているものだ。そして自由意志が不自由というのは、自由意志を構成する各要素と、自由意志が変化していくプロセスとなる個人の経験などが(それらを遡っていくと)全て自分以外のものによって決定されている、ということを意味している。        
そのため今回の結論は、「自由意志は存在しない」とか「運命は決定されている」と言ったものではなく、「自由意志は存在するし、自分の意識内では好きに物事を決定、考えたりすることはできるが、その決定や考えができることや、そもそもその決定や考えをしたいと思えるようになること自体は自分で決定できない不自由なものだ」ということになる。これを認めるとどのような考え方ができるようになるかはまとめの部分で述べる。

証明に用いる前提、原理について

 証明とは、自明であったり正しいと直感的に納得できたりする前提や原理を用いて、一見正しいか判断できない命題が実際に正しいことを示す行為だと思うので、まずこの証明に用いられる前提や原理について書きたいと思う。それは

①先天的要素の不自由さ
②不自由の伝播性
③自由意志の変化は経験のみによる

の三つだ。この三つを使ってこれからの証明をしていくが、簡単にこれらの前提や原理について確認しておく。

まず、先天的要素の不自由さとは、自分を構成する肉体的、精神的要素や自分を取り巻くさまざまな環境について、それらのうちの先天的なものについては自分で決定することができない、ということだ。もちろんそれらの要素の中には、鍛えた肉体や勉強で得られた学力、他者との人間関係など(自由意志が決定する判断によって)後天的に獲得できるものも多いが、自分の肉体の遺伝子や生まれつき持っている選好、自分が誰から生まれるか、といった先天的なものは自分で決定できない、つまり不自由なものとして良いだろう。つまり、自由意志と環境を数列A_n,B_mとして見た時の初項であるA_0,B_0が不自由なものだ、ということが言える。

次に不自由の伝播性についてだが、これはあるものの変化において、変化する前のものと変化の過程が両方とも不自由ならば、変化した後のものも不自由である、という意味だ。そしてこれと同じことがあるものの決定についても言える。つまり、何かを決定する際に、その決定の判断材料となるものと、その材料を用いて実際に判断を行うもの(今回は自由意志)が両方とも不自由なものであるならば、決定されたものは不自由である。
以下の証明では数列とのアナロジーを用いて自由意志の不自由さを示していくが、この原理は自由意志と環境を表す数列の隣り合う項間の関係について述べている。 

前者についての具体例を挙げると、他人が勝手に決めた色の折り紙(変化前の材料)を渡されて、他人が決めた折り方(変化の過程)に従わされ折り紙が完成したとすると、その完成品(変化した後のもの)は当然自分で決定できない、不自由なものになるだろう(その出来栄えや美しさに納得するかは個人の勝手だけど)。

後者についての具体例としてはChinese Boxのような状況を想像して貰えば良い。すなわち、たとえばA ,B,Cの3択(判断材料)からどれか一つを選ぶように他人に決められて、3つの選択肢の優先順位が書かれたリスト(判断を行うもの)に従って一つを選ぶよう指示されたとしたら、当然選ばれたものは(指示がなかった時の自分の判断と一致するかどうかはともかく)自分で決定できない、不自由なものだと言えると思う。

最後に、自由意志は経験のみによって変化する、という前提について説明する。自由意志の変化のプロセスについては後で考えるが、今回の議論では自由意志が変化するのは人が何かを能動的に、あるいは受動的に経験したときのみである、ということを仮定する。この経験には成功体験を積むことや逆に何かに失敗すること、本を読むといった能動的な経験だけでなく、人からアドバイスをもらうことや誰かに殴られるといった受動的な経験も含まれる。僕にはこういった経験以外に自由意志を変化させうるものが思いつかないので、この仮定を置いたとしても現実との齟齬は生まれないと考えている。

上にあげた三つの前提と原理は少なくとも僕にとっては自明なものなので、以下の証明ではこれらの前提や原理の真偽については議論しない。また、証明の部分で話が突飛に感じたら、前提や原理が自分の直感的な理解と合っているか確認してほしい。前提と推論が正しければ証明結果も正しいものになるはずで、逆に考えると証明結果が正しくないと感じる場合は前提か推論のどちらかが間違っているはずだから。

前提と原理についての説明が済んだので、次は自由意志が何から成るか、その成り立ちと構成要素について考えていきたいと思う。

自由意志は何から成るか

結論から言うとある個人の自由意志というのは、先天的な価値観と特性、人生における後天的な経験、誤差項とも言える真の偶然、の3つで構成されると思う。
さらに詳しく書くと、先天的に持っている選好や価値観、判断基準といった初項A_0が、後天的に経験する様々な出来事についての反省や推論によって変化し、その自由意志と真の偶然によって判断が決定されていく、というのが今回考えていく自由意志のモデルとなる。
この記事の最終目標は、これらの一つ一つについて、自分で決定することができない、もしくは自分で決定していたとしてもその決定を遡っていくと不自由な要素が元になっている、ということを示すことだと言える。そして前提の部分で書いたように、このうちの先天的なものについては自分で決定できないとして良いので、残りの二つについて考えていく。

真の偶然について

 上の順番とは前後するが、まず初めに真の偶然について不自由さを示したいと思う。この真の偶然というのは、それを説明する変数が存在しない偶然のことである。例えば、本当にどちらでも良いと思っている二つの選択肢から一方を選ぶ、というのはこの偶然によって決定していると考えられる。もちろん、無意識のうちに何らかの選好が働いてその選択肢を選ぶ場合も考えられるが、ここでは真の偶然が本当に存在したとしても自由意志の不自由さを示す上では問題ない、ということを明らかにするために、人間の意識レベルでも真の偶然が存在するということを仮定している。そのため、真の偶然は存在しない、あるいは存在しても自由意志には関与していない、としても今回の証明に不都合はない。
 かつての決定論は量子力学が発見したこの偶然に打ち砕かれたが、自由意志の不自由さについての主張においてこの偶然は障害になり得ない。なぜなら、この偶然を自分で決定することがその定義上不可能だからだ。決定論においては、世界が確率的に記述されるという主張は自説の根幹を揺るがすものだったが、自由意志の不自由さを示す、という決定論よりも弱い主張においてはむしろ、確率的な記述というのは(自分で決定できないという意味で)不自由なものの最たる例だと考えることができる。これによって今回の主張は決定論が抱える致命的な弱点を克服した、と言えるのではないか。

後天的経験とそれによって変化する自由意志の不自由さについて

 自由意志の構成要素として挙げた3つのうち、最も自由だと思われているのはこれから考える経験だと思う。経験が不自由だと言われてもピンとこない人も多いはずだ。普段よく聞く、二十歳を超えたら自己責任だという考えにも、後天的経験は自由に決定できるという前提が潜んでいる。そしてこの考えが一般的であることは、経験することは自由だという思い込みの表れだと思う。しかしその経験についてもその構成要素を遡っていくと実は不自由である、ということについてこれから述べていく。
 ここで示したいことは、経済的、地理的理由などによって進学や就職などの人生経験の一部が制限される、といったことではない。それよりももっと根本的な経験の不自由さについて考えていきたいと思う。
 まず、ここでの経験という言葉の意味を明確にしておく。経験とは、自由意志によって決定された能動的行動、あるいは他者などの環境からの働きかけによる受動的行動が発生したときに、その行動の結果として何らかの教訓や反省が得られ、それにより自由意志が変化していくことだ。また、その行動の際に周りの環境も何らかの変化を受けることになる。
 そして、今回は経験によって自由意志が変化していくことを数列に落とし込む。具体的には以下のように経験と、自由意志や環境の変化を考える。
ある時点での自由意志をA_n、自分を取り巻く環境をB_mとする。次にA_n,B_m(と真の偶然)に基づいて能動的に、あるいはB_m(と真の偶然)からの作用によって受動的に、何らかの行動が決定される。そしてその行動をした際に得られた教訓、反省によって自由意志が変化し、行動の結果として環境が変化する。つまり、A_n→A_n+1,B_m→B_m+1のように項が一つ進む。
(なお、ここでいう環境とは、周りの人間関係や自分の物理的状況、その時自分が持っている情報など、自分が持つ自由意志以外の全てのものを指し、自分以外の他人が持つ自由意志も環境に含まれる。自由意志と自分が持っている情報の区別は少し難しいが、人が判断する際には、自分が持っている情報についてそれらを比較、評価して最終的な判断を下すということを考えると、判断の際の材料となるのが情報で、その材料を評価し、判断を決定するのが自由意志だと分けることができると思う。あるいは、判断という値を返す関数が自由意志で、その関数に代入する具体的な値が情報と考えても良い)
 この経験の考え方について一つ例を挙げる。
 ある人が、中学校初の定期テストが近いという状況に気付いたので、親や先生などが言っていた「テスト勉強は頑張ったほうがいい」という情報を元にテスト勉強をするという判断をした。その結果テストの点数が良くて親からも褒められたのでこれからもテスト勉強は頑張ろう、という教訓を得た。
 一つの成功体験から努力を積み重ねるようになる典型的な例だが、その分イメージしやすいと思う。この例においてはテスト勉強をした結果テストの点数がよかったという経験をもとに、これからもテスト勉強を頑張ろうと自由意志が変化している。この変化によって次の定期テストの時にもテスト勉強をする判断ができるようになるわけだ。もちろん逆のパターンも考えられるし、スポーツや習い事でも似たような例は考えられるだろう。
 一つ説明しなければならないのが、この例における判断と得られた結果には時間的な隔たりがあるので、経験をどんどん細かく区切っていくことも可能である、ということだ。テスト勉強をすると一口に言っても、実際の行動としてはあの問題を解いて、次にこの問題を解いて、と分けていくことができる。しかし、その場合においてもある判断と別の判断の間にはそれらを決定する自由意志がたとえ無意識のうちにでも存在している(これは自由意志の定義から明らか)ので、A_n→A_n+1のような自由意志の変遷を考えることができる。
 経験を無限に細かく区切っていくことは可能か、というのは難しいところだが、少なくともある判断と次の判断の間にはその判断を行なっている自由意志が存在する、というのは納得できると思う。なぜなら、意識的、無意識的に関わらず判断を行なっているもの、というのが本稿における自由意志の定義だからだ。そして自由意志の変遷を追っていく今回の議論においては、経験が細かく区切られようとも、逆に大雑把に分かれていようとも、ある判断における自由意志を(誤差項である真の偶然を含めて)一つに同定できれば良いので、この点はあまり問題ではないと考える。そのため以下の証明では必要であればA_n→A_n+1の間の経験を細かく区切っていくが、特にその必要がなければ行動と結果の間に時間の隔たりがあっても一つの経験として扱うことにする。そしてこれは環境B_mについても同じことが言える。
この考え方を用いることで、連続的に変化する時間の上で成り立っている自由意志や環境を離散的なものとしてみなすことができて、それらの変化を数列で理解しやすくなる。


そもそも自由意志とは何か

ここの部分は証明そのものの正しさについてあまり関係がない(その証明を現実に適用しようとしたときに関係のある部分だと思う)ので、読み飛ばしてもあまり影響はない。

今回の議論における自由意志の定義は、人が何かしらの判断をする際に実際にその決定をおこなっているもの(真の偶然も含みうる)であり、ある判断について、たとえ無意識のうちであってもその判断を行った自由意志というものを一つに同定することができる。
しかしこれには一つ問題があって、それは自由意志をこのように定義すること自体は簡単だが、実際に自由意志がどのような機能を持っていてどのように働いているかを考えるのは非常に難しい、ということだ。
例えば、お昼ご飯をどこで食べるかという判断の際に働く自由意志について考えると、
① 自分が置かれている地理的、金銭的な状況やお腹の空き具合などを判断に関連する情報として認識する。
② 過去の記憶という形での情報や、①で得られた情報などをもとにお昼を食べる場所についていくつか選択肢を挙げる。
③ ②で挙げられた選択肢について①の情報などを踏まえながらそれぞれの選択肢の価値を比較し順位づけする。
といったプロセスを経て判断が決定されていて、これにさらに真の偶然がそれぞれのプロセスに入り込んだり、能動的経験と受動的経験の区別があったり、行動の結果からどのように反省、教訓を得るかという問題があったりすることを考えると、様々な判断における自由意志の働きを一般化するのは非常に困難であるので、今回の議論ではそれらについて深く考えない。(自由意志のそれぞれの働きや構成要素についてさらに詳しく書いた増補改訂版を出したいという気持ちはある)
しかし、自由意志の働きの一般化について諦めることは、この証明が現実と即していないということを意味しているのではない。
どういうことかというと、この後の証明において、A_nを「自由意志に関連するすべてのもの」、B_mを「A_nに含まれないすべての環境」と定義して、それら二つが”同時に”不自由であると仮定することで、現実世界の各要素がA_nとB_mのどちらに含まれていようとも証明の正しさには影響がない、ということが言えるからだ。
例えば、ある人は「自由意志が行う判断に関連する情報」はA_nに含まれると考えているが、別の人はそれがB_mに含まれると考えていたとする。しかし、今回の証明においてはA_nとB_mは"同時に"不自由であると仮定されるので、その情報がどちらの項に含まれていようとも不自由である、ということが仮定から言える。そのため、その情報がA_nとB_mのどちらに含まれていても問題なく不自由の伝播性を用いることができる。
そのため、自由意志の働きがどのように行われてるか、その働きを行っているのが脳なのか心なのか、感情は自由意志に対してどのような影響を及ぼすのか、といった疑問に答えられなかったとしても、「自由意志の働きに関連しているもの」をA_n、それ以外のものをB_mとしておくことで、機能やプロセスについては分からなくても、その要素が不自由であることは仮定から導くことができるようになるので、不自由の伝播性を用いる上では何の不都合もない、ということになる。また、この考えをさらに推し進めると、ある要素がA_nとB_mの両方に含まれていても問題ないということがわかる。(確かに、あるときは自由意思の判断に関連しているが、またあるときはただの環境である、というのは現実によく即していると思う。)
このAとBの区別の仕方は少し大雑把すぎるように感じるかもしれないが、上で考えた前提から、A_nは経験のみによって変化するという制限があるため、これくらいの区別でも現実世界との齟齬は生じないと思う。
また、このように考えると、A_nとB_mの区別が証明上必要ないということに気がつくだろう。今回の議論では、自由意志の変化についてイメージしやすいようにA_nとB_mを区別しているけど、AがBに含まれていたとしても証明する上ではあまり大きな問題は起きないと思う。そのように考えた場合の結論は「自分の自由意志を含めた全てのものは自分で自由に決定できない不自由なものだ」ということになるだろう。

不自由の伝播性の用い方について

以下の証明では不自由の伝播性を多用するが、この性質を適用する際に必要な条件などについて今一度触れておく。
まず、もう一度不自由の伝播性とは何かについて書くと、自由意志の変化と自由意志が行う判断について、変化や判断の元となるものと、それらの変化や判断のプロセスの両方が不自由(自分で決定できない)ものならば、変化や判断の結果も不自由なものである、という性質だ。これは僕にとっては自明なのでこれが正しいかどうかについてはこの証明では議論しない。

そして、自由意志の変化に対してこの性質の具体的な適用方法を考えてみると、

① 変化前の自由意志A_nが不自由なものである。
② その変化のプロセスである経験が不自由なものである。
の二つが満たされた時に
③ 変化後の自由意志A_n+1が不自由である
ということが言える、というように用いる。

自由意志が行う判断についても同様で、

① 判断材料(これはその時点での環境B_mに含まれる)が不自由なものである。
② その判断を行う自由意志A_nやB_mが不自由なものである。
の二つが満たされた時に
③ 判断の結果となる意思決定が不自由である
とすることができる。

そして、以下の証明では
① A_n,B_mが不自由なものだと仮定する。
② ①と不自由の伝播性から、自由意志が行う意思決定の結果である行動や経験が不自由だということが言える
③  ①、②と不自由の伝播性から、変化前のA_nやB_mと、その変化のプロセスである行動や経験が不自由であるので、変化後のA_n+1やB_m+1も不自由なものである、ということが言える。
という手順で証明を進めていく。


証明前の諸注意

 さて、上記の注意を踏まえて、いよいよ数学的帰納法を用いた証明を行なっていく。まず、A_0とB_0を設定する。これらはA_n、B_mの初項であり、A_0に含まれるものとしては先天的な選好などが考えられる。B_0をどう設定するかは難しいところだが、後の証明を考えるとビックバンとしても、自分という生命が誕生した瞬間の世界と自分の状態としても大差はない。これらは先天的なものであるので、最初の前提の部分で書いたように、自分で決定することはできない、つまり不自由なものである。
 次に、ある時点での自由意志と環境をA_n、B_mとおいて、A_nとB_mは不自由だと仮定する。そして、経験
によるA_n、B_mの変化を次の3つに分類する。すなわち
(1)A_nとB_mが同時にA_n→A_n+1,B_m→B_m+1と変化するとき
(2)A_nだけがA_n→A_n+1と変化するとき
(3)B_mだけがB_m→B_m+1と変化するとき
である。
また、(1)(2)(3)をさらに二つずつに場合分けする。すなわち
(i)経験される行動を決定したのがA_nであるとき
(ii)経験される行動を決定したのがB_mであるとき
このように場合わけすることで、AやBのすべての変化パターンについて考えることができる。
そしてA_n、B_mが不自由だという仮定のもとで、どのパターンにおいても変化した後の二つの項がそれぞれ不自由である、ということを示せば、A_0とB_0が不自由であることから、帰納的に任意の項A_i,B_jが不自由であるということが言える。では、具体的な証明に移りたいと思う。

証明

まず、前提から、A_0とB_0は自分で決定できない不自由なものである。
次に、A_n,B_mを自分で決定できない不自由なものだと仮定する。そしてAやBが変化するパターンを次のように場合分けする。

(1)A_nとB_mが同時にA_n→A_n+1,B_m→B_m+1と変化するとき
このパターンの具体例としては、何かに挑戦して成功することや失敗することなど、日常で起こるほとんどすべての経験が挙げられる。

まず 、(i)経験される行動を決定したのがA_nであるとき について

この行動を決定した自由意志A_nは仮定より不自由であり、その判断材料となる情報はA_nかB_mのどちらかに必ず含まれていて、どちらにおいても仮定より不自由であることがわかる。よって、行動を決定する自由意志とその判断材料が共に不自由であるので、不自由の伝播性から、決定された行動が不自由であることが言える。
そして変化元のA_n,B_mが共に不自由であり、変化のプロセスである行動も不自由であることから、不自由の伝播性から、その行動の結果変化したA_n+1,B_m+1も共に不自由である、ということが言える。なお、この変化の際に自由意志や環境に存在する真の偶然によって行動や結果が若干変化することも考えられるが、その真の偶然も自分で決定できないという意味においては不自由なものなので、伝播性や結果に影響はない。

(ii)経験される行動を決定したのがB_mであるとき

(i)と同様に、その行動を決定した(この決定には自然現象による偶然や他人の自由意志による決定などが含まれる)B_mは仮定より不自由。そして、その行動が決定される原因や判断材料はA_nかB_mに含まれるため不自由。よって不自由の伝播性から決定された行動が不自由であり、変化元のA_n,B_mも共に不自由であることから、不自由の伝播性からA_n+1,B_m+1も共に不自由である、ということが言える。

(2)A_nだけがA_n→A_n+1と変化するとき

このパターンの具体例はあまり思いつかないが、強いてあげるなら自分の思索によって自分の判断基準、つまり自由意志が変化することだろうか。(一応言っておくと、たとえ(2)に当てはまる具体例が存在しないとしても、証明の正しさにはさしたる影響はない)

(i)経験される行動を決定したのがA_nであるとき

この行動を決定した自由意志A_nは仮定より不自由であり、その判断材料となる情報はA_nかB_mのどちらかに必ず含まれていて、どちらにおいても仮定より不自由であることがわかる。よって、行動を決定する自由意志とその判断材料が共に不自由であるので、不自由の伝播性から、決定された行動が不自由であることが言える。
そして変化元のA_nが不自由であり、変化のプロセスである行動も不自由であることから、不自由の伝播性から、その行動の結果変化したA_n+1が不自由である、ということが言える。そしてB_mは仮定から不自由であることが言えるので、変化後の両方の項について不自由であることが言えた。

(ii)経験される行動を決定したのがB_mであるとき

その行動を決定した(この決定には自然現象による偶然や他人の自由意志による決定などが含まれる)B_mは仮定より不自由。そして、その行動が決定される原因や判断材料はA_nかB_mに含まれるため不自由。よって不自由の伝播性から決定された行動が不自由であり、変化元のA_nが不自由であることから、不自由の伝播性からA_n+1も不自由である、ということが言える。そしてB_mは仮定から不自由であることが言えるので、変化後の両方の項について不自由であることが言えた。

(3)B_mだけがB_m→B_m+1と変化するとき

具体例としては、自分が全く関与していない世界での変化や習慣化された行動による自由意志が変化しない(教訓や反省が得られない)経験などが考えられる。

(i)経験される行動を決定したのがA_nであるとき

この行動を決定した自由意志A_nは仮定より不自由であり、その判断材料となる情報はA_nかB_mのどちらかに必ず含まれていて、どちらにおいても仮定より不自由であることがわかる。よって、行動を決定する自由意志とその判断材料が共に不自由であるので、不自由の伝播性から、決定された行動が不自由であることが言える。
そして変化元のB_mが不自由であり、変化のプロセスである行動も不自由であることから、不自由の伝播性から、その行動の結果変化したB_m+1が不自由である、ということが言える。そしてA_nは仮定から不自由であることが言えるので、変化後の両方の項について不自由であることが言えた。

(ii)経験される行動を決定したのがB_mであるとき

その行動を決定した(この決定には自然現象による偶然や他人の自由意志による決定などが含まれる)B_mは仮定より不自由。そして、その行動が決定される原因や判断材料はA_nかB_mに含まれるため不自由。よって不自由の伝播性から決定された行動が不自由であり、変化元のB_mが不自由であることから、不自由の伝播性からB_m+1も不自由である、ということが言える。そしてA_nは仮定から不自由であることが言えるので、変化後の両方の項について不自由であることが言えた。


 これで全てのパターンについて証明が終わったが、見てわかるように証明部分は短く、(二つの前提と原理が正しいのならば)当たり前のことしか書かれていなく、ほとんどのパターンにおいて同じことしか言っていないので、証明で疑問に感じるところがあった人は前提の、特に不自由の伝播性について確認してみてほしい。
 今回の証明において、論理的に破綻している、もしくは現実と即していない可能性があるのが、原理としておいた不自由の伝播性、もしくは自由意志と環境の変化を離散的に考えて数列に落とし込むところだと思うので、その辺りで解決できない疑問がある人はぜひ一緒に議論したいと思う。

予想される疑問点とそれに対する説明

さて、ここまでで自由意志の不自由さについての証明はすでに終了しているが、疑問に覚えるところがあったり、現実と乖離しているのではないかと感じたりした人もいると思う。そこでこの項では多くの人が疑問に思うであろう部分や更なる説明が必要だと思われる部分についていくつか書き加えておこうと思う。

まず一つ目が「経験は離散的に扱えるのか」ということについて。例として、自分の思考や自由意志が長年住んできた風土や近くにいた人たちから影響を受ける、というのはあり得ることだが、こういった、影響を受けたイベントやエピソードを一つに同定できない経験を数列に落とし込むことは可能か、という疑問を覚えた人もいると思う。
これについて説明すると、まず経験というのは私たちが何らかの形で認識した現象によって起こる、ということを思い出してもらいたい。つまり、視覚であれ聴覚であれその他の感覚であれ、私たちは認識できないものを経験することはできない、ということだ。これは多くの人が納得できる事実であると思う(もしかするとこれは前提の部分で書いておくべきことかもしれない)。この事実によって、全ての経験を「自分がその現象を認識した」という能動的な形で描くことが可能になる。すると、先ほどの例で言えば「近くにいた人たちの細かな言動を認識して、それによって少しずつ自由意志が変化していった」という風に自由意志の変化を考えることができて、上の証明のパターンのどれかに落とし込むことができるようになる。(もちろん、こういった認識が全て意識的に行われるとは限らないが、無意識であっても結論は変わらない)そのため、「環境からの漠然とした影響による自由意志の変化」のようなものも上の議論で問題なく扱うことができると思う。
また、もしそうしたいのであれば、認識できないことによっても人は経験し得る、と考えても良い。この場合でも、認識できないものは当然自分で決定できない不自由なものであるので、結果として変化した自由意志も不自由なものである、ということが言えると思う。

二つ目は、「無意識の行動に自由意志を考えることはできるのか?」という疑問について。最初の方で「今回の証明では無意識のうちの行動であっても、その行動は自由意志が決定しているとみなす」と書いたが、これは現実に適しているのか、という疑問だ。
結論から言うと、これはどちらであっても証明に影響はない、つまり(そもそも無意識のうちの決定が存在するとして)その決定に自由意志が関与していようがいまいが、その決定や、ひいては自由意志が不自由だということが言える。
どういうことかというと、まず無意識のうちの決定が自由意志によって行われる場合は、上の証明で書いたようにその決定は不自由なものである。次に、無意識のうちの決定に自由意志が関与していない場合を考えると、これは真の偶然について考えた時と同じことが言える。つまり、自分の自由意志が関与していない決定は当然自分にとって不自由なものであるので、それによって得られる結果なども不自由なものである、とすることができるので、無意識というものの存在の有無は証明の正誤に影響を及ぼさないことがわかる。

三つ目は「証明が適当すぎないか」という疑問だ。確かに、最後の証明部分ではいくつかの場合分けを行っているものの、その全てについてほぼ同じ議論を行われ、同じ結論が出てきている。そのためこれで本当に自由意志の不自由さが証明できているのかと疑問に覚える人も多いと思う。
しかし、これには明確な理由があって、それは「証明に用いる前提や原理、仮定が強すぎる」というものだ。改めて思い出してもらえると良いが、自由意志を数列として見立てた時の各項間の関係や初項の条件などについて非常に厳しい制約が課せられている(特に、自由意志は経験によってのみ変化するという前提など)。そしてそのような限られた場合についてのみ考えているので、「この関係を使えばこうなるのは当然だろう」といった議論や結論が繰り返し行われるような証明となってしまっている。
しかし、これは証明の方法に問題があるのではなく、実際の自由意志の変化がこのような厳しい制約条件のもとで常に行われているから、それに合わせて前提や仮定も限られた場合のみを扱うように決められている、という言い訳を一応しておく。この証明をする上で様々な前提や原理などを考えたが、(少なくとも僕の認識の上で)それらは全て現実に適した、意味のある定義がなされている。なので、上にも何回か書いたように、この証明が間違っているとしたら、それは前提や原理の部分で現実と乖離している部分がある、という可能性が高いと思うので、解決できない疑問を覚えた人はぜひ一緒に議論してみたいです。

まとめ

最後に、今回の証明が正しいものだとするとどういう考えが出来るようになるか、について簡単に書こうと思う。
それは「努力できたり、活発に行動できたりするような良い自由意志を持てるかは運に依るので、自由意志とその自由意志に基づいて行われた判断の結果に主観的価値以外の価値を見出せなくなる」というものだ。
例として、子供の頃に一回ジャンケンで勝ったことをいつまでも自慢してくるような人がいたとすると、その人に対する反応は「はあ、そうですか」と言った程度のものだろう。それと同じことが、あらゆる人のあらゆる行動とその結果に対して考えられる、というのが結論となる。
ただ、それらの結果などに主観的な価値を感じるかどうかは人により、またそのことに対しては正しい、正しくないということは言えないので、主観的価値観とその傾向についてはあまりこの証明と関係がないと思う。
なので、「自分にとって価値のあるものは自分にとって価値がある」という命題はこの証明が正しかったとしても当然成り立つ。もちろん、それに価値を見出せるようになることは、自分にとって不自由なものなんだけど。
といったところで今回は終わりにしようと思う。


 ちなみにタイトルは最近ラブコメとかでよく見る『〇〇な〇〇さん』を意識している。

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