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日本人と米、ときどきオートミール

日本人のコメに対する執着は、なんだか常軌を逸していると思わざるを得ない。
先日のニュースで、新米の購入に1時間ほどの大行列ができたのだという。お値段なんと、5kg3000円程度。高いし、米の購入に1時間も並ぶなんて、なんて日本人は米好きなのだ…

かくいう私も米、もっと正確に言うなら白米で育ってきた人間だから、多くの日本人のように米不足や米の価格高騰に悩み、そして新米の到来を待ち望んでもいいはずだが、幸い(不幸にも?)私は白米に対してそこまでの執念を抱けない。

旅館などで食べる、最高においしい状態で炊けた白米は、確かにおいしい。しかし、普通の炊飯器で炊いた普通ランクの米って、そんなにおいしいだろうか?
時にべちゃっとしたり、よく炊けていても時間がたつと残念な感じになったり、においも実はそんなに良くないと、私は思うのだが……よく噛んだって、なんだか食感も気持ち悪く感じてしまう。

ちょっと前、ダイエットの一貫でオートミールがプチ流行したが、挑戦した多くの人々は「これは、鳥の餌なのか??」「これは、主食として食えたもんじゃない」などと、さんざんにこき下ろされていた。そして、体感としてオートミールに手を出した70パーセントの日本人は、白米に戻ってしまった。

しかし、まだまだしぶとくオートミールにしがみついている人間がいた。ナマコを食ってみたり、ウニをくおうと試みたりした食の変態達のご子孫であろう。
奴らは、オートミーツをジャパナイズド、日本化しやがったのである。

「オートミールの米化」爆誕。

なんだ、おめーらそこまでして米が食いてえのか?私はあきれてしまった。あんな、べちゃっとした物体の何がそんなにいいのだか分からないが、変態たちは、どうにかこうにか鳥の餌を米に見立て、毎朝毎晩「いかに米に近づけられるか」苦心したのであろう。

しかし、残念ながらオートミールは米ではない。彼らもまた、やはり時遅くして、白米生活へと帰っていったのだ。

この時点で、オートミール食にたどり着いた日本人のうち95パーセントは「白米系日本人」へ回帰していったのであった。

では、残りの5パーセントは?実は、まだまだオートミール食を続けていたのである!この生き残り、「新・オートミール系日本人」は「コメの常食」から「オートミール常食」へ歴史的転換をみせ、今でもオートミールを食べているのである。

では、新・オートミール族はいかにしてその食生活を変え得ることができたのであろうか?

①ボディビルダーやそれに準ずる「身体を資本とする」人々
彼らは、食材を単なる「栄養素」でしか見ていない。うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、という質問には「うんこ味のカレー。」と即答する人種だ。

卵はもはやタンパク質でしかないし、野菜も筋肉をつけるための道具でしかない。ブロッコリーと鳥のささみ、胸肉、プロテインがあれば火星でも生きていける。いかに己の体に効率的に栄養を取り入れ、美しい筋肉・肉体を手に入れることができるかという手段でしかない「食事」に、味といった嗜好性など求めない。もし泥水が筋肉増強に良い、というエビデンスの高い研究結果が出ようものなら、タンクトップを来たマッチョたちは雨上がりに街に繰り出し、我先へと都会の汚い泥水を啜りに行くであろう。

白米・玄米と比較して食物繊維が豊富でカロリーの低いオートミールは、彼らにとって「最高の炭水化物」なのである。

②白米にそもそも興味がない人
第二種・新オートミール族は、「そもそも白米・米食にこだわりのない人々」である。

別に、前から主食にはパンだってパスタだって、米だってうどんだって、なんだってよかった。365日パンだって、パスタだって、文句はなかった。しかし、白米もパスタも、調理せねば食べられない。パンは例外的に調理の不要なものだが、それでも毎日主食となるとちょっと問題が生じる。

パンは手作りするにはやはり面倒だし、既製品はやはり高い。添加物も心配だ。だから、毎日パン、というわけにもいかず、適当にパスタを食ったり米を食ったり、雑食に日々をやり過ごしていたのだろう。

しかし、そこにオートミールという救世主が現れた。オートミールは栄養価も高く、調理も簡単だ。主食にさしたるこだわりもない人は、調理が簡単で値段も安いオートミール食ブームにノリノリで参加し、そのブームが去った今でもカルディや業務スーパー、近所のスーパーでオートミールを見かけるたびに、「これこれ!」と言わんばかりに購入しているのだろう。

私はこの第二種・新オートミール族の一員である。ちなみに私のおすすめのオートミールはカルディで売っている500g350円程度の、イギリス産のオートミールだ。なんだかアラビア文字みたいなのが書かれていて、異国感を感じさせるパッケージに、ネイチャーズ・ホワイトオーツ・オートミールを印字されている。
英語、アラビア語(?)、ヒンディー語(?)、フランス語と多国語が書かれたオートミールは、やはり世界の貧乏人の常食にふさわしい国際的な様相だ。

そう、オートミールは貧乏人のための貧乏飯なのだ。私にはちょっと感覚が分からないが、オートミールは本来「鳥の餌」と称してもいいほど、安くてまずいものなのだ。チープ、ノットデリシャス。しかし、毎日のコストとなる主食は安さには代えられない。そして調理器具が最低限でも作れる。(貧乏人の家には大抵調理器具や調理設備が整っていない。せいぜい1口コンロと鍋と皿が数枚程度であろう)調理時間がほぼゼロ。決してハリウッド・セレブが食ってるシャレオツな食いもんではないのである。

私は清貧という考えが好きだ。貧乏生活、もっときれいな言葉でいうと、つつましい生活が好きである。できるだけ社会と関わらず=外食などをせず、できるだけ働かなくてもいいように=消費を抑えて節約し、投資に回すことで資産を増やしFIREし、外の人間と関わらず、安静に「隠れて生きたい」のである。

だから、私はオートミールに無調整豆乳をぶち込み、時間があるときはちょっとレンチンしてふやかし、ココアパウダー(砂糖なし)をぶちまけて、その何とも言えない貧乏くさい味を「これでよし」と食っているのである。人にはそれぞれふさわしい生活というものがある。

私にふさわしいのは、貧乏ココアオートミール安い食材で作った野菜スープ、ぼろい服、使い古した靴、ボロボロの財布である。


ここまで散々オートミール食をこき下ろしてきた。しかし、私は純然たるオートミール愛好家であり、やはりここはひとつオートミール食を愛する人々に対してポジティブな内容の文章も書いていきたいところである。
私の思うオートミール食を食える人々の美徳はずばり、

「世界中どこでも生きられる人たち」

なのではないか?と思う。

昔、どこかで人間は「故郷を離れて生きられる人」と「そうでない人」に分かれると聞いたことがある。

私は18年間住んだ実家のある故郷を、さして懐かしいと思わないし、懐古の感情もない。ただの土地だ。東京も、ただの土地だ。まあ、どちらも住みやすくはあるが。東京も、故郷の県も嫌いじゃない。でも、まあ別にいつ出て行ってもいいというぐらいには愛着はない。どこでも生きていけると思っているし、むしろ、違う土地に住んでみたいとすら思っている。

しかし、大部分の人々は慣れ親しんだものが大好きな人種である。白米を食べて育ったら白米が大好き、やめられない状態になるし、パスタを食って育ったらパスタが大好きになるのであろう。故郷に帰れば郷愁の念がこみ上げ、一人暮らしをすればホームシックになる。日本・故郷(決して田舎民を馬鹿にしているんじゃないぞ。東京しか住みたくないとか言ってる人間も同様だ)を離れたくない、と言い、一生その土地で住んでいることもある。「どこか違う場所で住んでみたい」と思う我々とは大いなる違いである。

長年住んだ場所、長年食ってきた食い物、それらに執着がないのが、オートミール族である。我々は、いかに毎日の食が鳥の餌と揶揄されようと、ナショナリズム的精神から解き放たれ、慣習や文化という縛りからも解き放たれ、自由な精神を持った解放された人々なのである。……いかに日々の食が鳥の餌であろうと。


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