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なぜ。人は新興宗教を過剰信仰してしまうのか。考えてみた。

さてさて、今回はだいぶ踏み込んだ内容ですね。
大丈夫か、変な風に思われないかとびくびくしながら書いております。

ひィ~!怖いけど、まぁあくまでも個人の意見ですから鵜吞みにしないと思うけど、しないでくださいね!

それと、題名イキってるって思ったでしょ?

大正解!! いきりちらかしました….

まず、この事を書くのに心配事があるのでこれだけは言わせてください!!

第一に、これはあくまでも個人の意見です。
第二に、私は信教の自由を阻害したり、宗教を信じている方に対するヘイトスピーチを述べるつもりはありません。

では、少し怖いですが本題に移ってみましょうか。

HONDAI


昨今の日本の事情について。

 近年では、グローバリズムや更なる自由主義の到来などで戦時中から高度経済成長期にかけて、とても大きな変貌を遂げました。グローバリズムの面で言えば、日本の学校では英語教育が大切であると謳われています。例えば、平成15年に出された文部科学省の行動計画によると「子供たちが、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に着けることは必要不可欠」として、英語の授業の変化や入学者選抜等で3技能を新たに選定するなどの策定が提案されています。つづいて、更なる自由主義の到来により、個人間の自由と秘匿性が更に向上して、”自分自身の行動”が大切となりました。たとえば、地域コミュニティの形骸化により半強制的なコミュニケーションの減少や、18歳を成人と「定義」したりして個人間の活動範囲が広がったのも、”更なる自由主義”の到来などが考えられると思います。
 しかしながら、これにはもちろんデメリットがあり、そこに目を向けなければなりません。更なる自由主義というのは、確かに個人的な裁量の向上に貢献しました、しかし、これはある一定の人が集合を作るのに障壁を作ってしまっています。
 1960年代などのまだ、地域コミュニティがしっかり形成されていた時代には半強制的な頑丈な集合が形成されていました。これは、束縛感というものをある一定の確率で参加者に抱かせてしまうが、孤独感というのは少なかった傾向にあると思います。しかし、今は集合というものが縄のように曖昧かつ、弱々しくなってしまいました。これは、個人の自由というものが担保される反面孤独感を与えるという事に繋がってしまったのです。これに、並行するようにグローバリズムというものが導入されていき、アジア圏特有の宗族的集合ではなく、アメリカや欧州のような個人の自由が必要であるという考え方に変化を果たしました。
 では、孤独感を抱き集合に入れない者はどうなるでしょうか。従来のような強制的かつ頑丈な集合でなくなると、誰でも自由に参加できるように見せかけた集合では、参入させる人の選定というのがどうしても行われてしまうのです。それが、以前以上に強大な障壁を作らせ、孤独というものを認識させてしまうのであります。
 孤独というのが露見すると人は、崩壊するまでそう長くはないです。エーリッヒ・フロムが著作した「愛するということ」によると、"人間は孤独に耐えられず、崩壊してしまうだろう。”と記載されています。つまるところ、人は新自由主義やなんやと言っていますが孤独には太刀打ちできないってことなのですよ。そのため、孤独を抱いている人は、受け止めてくれる集合を探し求めたり、崩壊しきってしまい最終的に自殺という選択肢を取ってしまう「時代の被害者」が生まれてしまうわけです。
 では、孤独を抱いている人の行動に目を向けてみましょうか。ここで、出てくるのが、題名にもある「宗教」という集合なわけです。宗教組織は、大抵誰に対しても寛容であると思います。これは、孤独を抱いている人を抱きかかえてくれる最後の砦の一つであるからです。そこに、どこかの偉い宗教のトップが考えたのが献金などのビジネスや抑圧というわけです。献金に関しては、長い歴史があり遠い昔では、ルターが「九十五か条の論題」で批判したように、カトリック教会は、贖宥状というものを販売して、信者から金銭を巻き上げていましたね。なぜ、これらを行っても彼らは脱退したりしないのか、それは、”孤独”に帰化する事が本能的に怖いという所にあります。この事を利用して、献金を彼らにさせる脅し文句として、「献金をすれば孤独には戻らず、集合の中の一員で居られる」としたわけですね。そして、抑圧に関しては当時の東ドイツの内政状況と似ても似つかぬ所があると思います。脱退を計画する人を密告させ、組織的に罰を与え、密告をした人は地位が上がる。こうすると、相互的な監視体制が成り立ち逃げられなくなるというわけです。
 

 さいごに宗教を頼らない方法を考えましょう。それは、自分が情熱を捧げられる物を探すということが一番の解決策であると僕は考えます。でも、この考え方ではラッセルが著作した「幸福論」における、「熱意が持てるものと友好的であれ」という主張と同じように、どのようにして、熱意を捧げられる物を得るのかというルートが未解決なままです。すごく稚拙な解決策かもしれませんが、幸運なことに私たちには技術という恵があるわけです、それを使って、色々な活動を体験をし、徐々に自分を探していくという作業を第一にしなければならないのかもしれませんね。

なーんて、書いてみた今日この頃でした。まさか、、、ここまで読んだ人がいるとは思いませんけど、もしも読んでいたらあなたは、最高の読者です。嬉しい限り!! 
本当にありがとうございました。そして、気分を害してしまった方がいたら、本当に申し訳ございませんでした。

では、また明日。



出典:Amazonより
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