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読書メモ・第5回・カズオ・イシグロ『日の名残り』(中公文庫、土屋政雄訳・1994年、日本語版初出1990年)

カズオ・イシグロの『日の名残り』は、小説ではなく、映画から入ったクチである。1993年公開というから、今から30年前の映画である。私は20代半ばのころ、劇場で見た。
謹厳な執事・スティーブンス(アンソニー・ホプキンス)は、厳格なまでにプロ意識をもって執事の職務を遂行する。使用人同士の恋愛が禁じられている執事の世界で、彼は女中頭であるミス・ケントン(エマ・トンプソン)に深い友情を感じながらも、それを決して表に出すことなく、職務に忠実な執事であり続けるのである。
やがて時が過ぎ、長らく仕えていた主人が没落し、新しい主人に仕えるようになったスティーブンスは、結婚して引退したかつての同僚、ケントンのもとを訪ねる。新しい主人の下でもう一度仕事をしようと説得するためである。2人の再会の場面は、スティーブンスとケントンの両者の、決して明かされることのない思いとも相俟って、じつに印象的である。
あらためて映画を見てみてわかったのだが、最後の場面、すなわち、二人が再会する場面が、小説とはやや異なっていた。
原作に比べて、映画の方が、スティーブンスのセリフが、極力抑えられている。
原作の方は、どちらかといえば、スティーブンスがやや饒舌なのである。
個人的には、映画版の方がよい。
結婚して「ミセス・ベン」になったかつての旧友、ミス・ケントンから、じつに久しぶりに手紙が送られてきたスティーブンス。
ミス・ケントンの手紙には、「ダーリントン卿のお屋敷で働いていた頃が、いちばん幸福だった」と、書いてあった。それは、現状の生活に不満があるともとれる内容だった。
その手紙を受け取ったことがきっかけとなって、スティーブンスは休暇をとり、20年ぶりにミス・ケントンに会いに行くのである。
道中、スティーブンスの頭の中で、「あの頃のように、また一緒に、屋敷に仕える身として仕事をしたい」という思いが、どんどんとふくらんでゆく。だが実際にミス・ケントンに会ってみて、その願いは、ミス・ケントンの「ある発言」で、見事に打ち砕かれる。
そこで、彼の中でふくらんだ「思い」は、急速にしぼんでいくのである。そのあたりの表情やしぐさを、アンソニー・ホプキンスは、見事に演じている。
地味な内容だが、細部にわたって、じつに丁寧な演出をしている映画だと思う。
もちろん小説版も味わい深い。いつか日本語訳ではなく原書で読んでみたいと思ったりしたこともあったが、残りの人生でとても読む時間などないだろうから、カズオ・イシグロの別の小説を読んでみようと思う。

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