理想の読書会

理想の読書会というのはどういうものだろうといつも考えている。そもそも自分は読書会をやりたいと思っているのか、そこもよくわからない。
読書会をした経験は数少ない。高校時代に図書委員をしていたが、そのときに一度、図書委員会主催の読書会を行ったことがある。とりあげたのは太宰治の小説(『人間失格』だったと思う)で、広く参加を呼びかけたと記憶するが、結局、図書委員数名のみのこぢんまりした会になった。私はその時初めて読書会というものに参加したが、その場でどのようなことを発言したらよいのかわからず、かなり的外れなことを言って顰蹙を買った覚えがある。
次に経験したのは、以前の職場でのことである。職場の3~4人の職員さんと私とで、退勤時間後になぜか読書会を始めることになり、これは5回ほど続いた。当時の記録を振り返ってみると、第1回が向田邦子『眠る盃』、第2回が向田邦子『思い出トランプ』より「かわうそ」と「三枚肉」、第3回が安房直子『きつねの窓』、第4回が菊池寛「入れ札」、第5回が重松清「いいものあげる」(『ロング・ロング・アゴー』新潮文庫より)だった。どういう経緯で始まったのかも、読書会でどんなやりとりが行われたかもまったく覚えていないが、当時私が向田邦子のエッセイに傾倒していたことに端を発した会だったのではないかと推測する。全5回で自然消滅してしまった。
その後は1度だけ読書会に参加した。コロナ禍の2021年5月に、土門蘭さんの『戦争と五人の女』のオンライン読書会に声をかけていただき、末席に連なった。この読書会はじつに楽しいものだった。

あとで読む・第37回・土門蘭『死ぬまで生きる日記』(生きのびるブックス、2023年)|三上喜孝 (note.com)

しかしいずれの読書会も、手間がかかったという思い出が残る。長編の1冊を読み込んだり、なかにはわざわざレジュメを作ってのぞんだりしたものもあったと記憶しており、読書会が続かないのはその準備のたいへんさゆえなのかもしれないと感じたものである。

先日後輩から、「このエッセイを読んでみてください」とウェブ上に転載されているエッセイのリンクが送られてきた。もとはある文芸系出版社の出している小雑誌に掲載されているもので、執筆者は若手の、といっていいのか、ピン芸人である。
その後輩は折にふれてお薦めのコンテンツをSNSのチャット機能を使って送ってくれる。しかし何でもかんでもというわけではなく、満を持して推薦できるもののみを推薦してくれているのだと思う。私がきっと面白がるだろうと思うものを吟味して送ってくれるので、私も心して向き合わなければならない。
短いエッセイだったのですぐに読むことができたが、思わず唸ってしまった。私はその執筆者がどのような人生を歩んできたのかもあまりよくわかっていないのだが、そういうことを差し引いても、表現のチョイスと構成の妙には圧倒された。一読してそうとう推敲を重ねていると感じた。そして馬鹿馬鹿しさと切なさと、複雑な思いが入り交じっているその筆力は、こちらの感情を揺さぶってくるものだった。
私はさっそく、SNSのチャット機能を使って比較的長めの感想を書いた。たんに面白かった、だけではなく、どういうところが面白いと感じたかを分析的に記していった。ちょっと頭でっかちの感想だったかもしれない。
それに対して後輩は、自分がエッセイを読んで感じたことを率直に書いてくれた。執筆者のこれまでの人生や感情の揺れ動きを咀嚼しながらそのエッセイを読み取っていく。その視点は執筆者をいつも見守っているその後輩にしか書けないことで、私には到底及ばない境地である。なるほど執筆者の人生の背景を知ればこの一文はまた別の見方ができるのかと、私の中の凝り固まった思考が解きほぐされていく。
待てよこれは読書会なのではないか、と私はそのときに気づいた。なにも1冊の本を前にしてそれを読み込んだ結果を披露することだけが読書会ではない。だれかがだれかに教え諭すというのも違う。たとえ一篇の短いエッセイだったとしても、そこに広がる世界をどれだけすくい取ることができるか、各自が背負ってきた人生をもとに読み込み、それを言語化していく。一口に面白いと言っても、その視座は一人ひとり異なる。それを楽しむことができたということは、これはもう立派な読書会である。多様な読書会のあり方があっていい。たとえSNSのチャット機能を使って感想を1往復させるだけであっても。


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