あとで読んだ・第39回(後編)・桐野夏生『日没』(岩波現代文庫、2023年、初出2020年)

韓国出張のお供に持っていった桐野夏生さんの『日没』。出張の時にはたいてい文庫本を持っていくのだが、旅先でほとんど読むことなく持って帰ると言う「性分」なので、今回もそうならないだろうかと心配だった。今回はなるべく荷物を軽くすることが至上命題だったからである。
結果的には旅のお供にして大正解だった。
読み始めたら止まらない、というか、早く読み終わらなければ私のメンタルがどうにかなってしまう、という思いに駆られ、必死で読み進めたのである。
ご承知のように、この小説はいわゆる「ディストピア小説」とよばれるもので、言論の自由のない世界、正確には「正しいことしか書くことを認められない世界」に小説家が放り込まれ、数々の苦痛を体験する。読み進めるうちに、早く読み終わって楽になりたい、と強く思わせる内容なのである。
我田引水だが、前にここで紹介した福永武彦の「未来都市」「冥府」にも通じるコンセプトである。そのコンセプトをさらに推し進め、読者にも身体的な「痛み」を追体験させるのがこの小説の真骨頂だ。
この小説が心に突き刺さるのは、いまの社会に生きる我々が、多かれ少なかれ、こうした世界に引きずり込まれつつあるということに対して不安に感じているからではないだろうか。卑近な例でいえば、「マイナ保険証」をめぐる担当大臣や官僚の答弁に、言葉遣いは丁寧ながらも、国民に選択の余地を与えようとせず、空恐ろしさを感じさせることとよく似ている。
そういう現象は、多かれ少なかれ、あらゆる場面であらわれているような気がする。たとえば組織のリーダーに反対意見(それがたとえ建設的な意見であっても)を述べようとするととたんに不利な立場になったり、はては排除されたりする場合もある。そのことが恐ろしくて、面従腹背せざるを得ない。そのストレスをどうやったら気づかれずに吐き出すことができるか、人々はできるだけ気づかれないように、小声、あるいは隠語で意思疎通を図ることになる。だれにでも思い当たるフシがあるのではないだろうか。
そのような場面に立ち会ったとき、これからの私はこの小説を何度でも思い出すだろう。

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